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マンハッタンからはもう、何も生まれないかもしれない

—アレッジド ギャラリーを始める以前のNYのストリートアート・シーンはどんな状況でしたか?
アーロン 80年代はキース・ヘリング、(ジャン=ミシェル・)バスキア、 グラフィティ界ではフューチュラ(2000)やドンディ(・ホワイト)なんかの動きが広く知られるようになってきていて、それがニューヨークのストリートアート・シーンの第一波だと思う。だけど、彼らが爆発的人気になってしまって、みんなそれを好ましく思っていなかった。『ビューティフル・ルーザーズ』のメンバーは、その第一波が終わったときに台頭してきたヤツらだね。
—ちょうど90年代に入る頃?
アーロン そうだね。当時フューチュラ 2000はキンコーズの職員で、まだコピーを刷るような仕事をしてたよ。その後にスケートボードカルチャーがストリートアートと融合するんだけど、この2つはビースティ・ボーイズが繋げたと思ってる。『ポールズ・ブティック(Paul’s Boutique)』や『チェック・ユア・ヘッド(Check Your Head)』くらいの時期だね。パンクもストリートアートも全部一緒になって、この時代はジャンルが違ってもみんな友達だった。アレッジド ギャラリーもその頃に始まったんだ。
—アレッジド ギャラリーではどんな基準でアーティストを選んでましたか?
アーロン う〜ん……。基準はあると言えばあるし、ないと言えばなくて。ただ、僕がいつも探してたのは完全にオリジナルな作品を創っているアーティスト。ほかのアーティストとはまったく似ていないものを創っている人たち。その作品自体にアーティストの人格やアイデンティティが表れてて、オリジナリティがある人。もし、すごく若くても、テクニックが追いついてなくても、そういうビジョンを持ってる人だったらフィーチャーするようにしてたよ。
—ちなみに、特に印象に残っているアーティストは?
アーロン みんなそれぞれ違う方法や状況でアレッジドに関わってくれたから、誰がっていうのはなかなか答えにくいなぁ。

—『ビューティフル・ルーザーズ』に参加していたアーティストたちとはずっと会っていましたか?
アーロン 連絡はとっていたよ。アレッジド ギャラリーを廃業した頃(2002年)はもう、ニューヨークの家賃は高騰して住むには高くなり過ぎてたし、みんなそれぞれの道を歩み始めてたから散り散りになってしまって。さらにその時期にマーガレット(・キルガレン)が癌で34歳で亡くなって、そこから数年はみんなほとんど何も話さなかった。みんなにとって心の痛くなる話だったしね。僕らの関係に問題があったわけじゃなく、喪に服していたというか、心から悲しんでいたんだ。だけど、そこから徐々にまた、連絡を取るようになっていったね。それからしばらく経って『ビューティフル・ルーザーズ』の展示をやったんだけど、それは、みんなが再会するようになった結果でもあるんだよ。
—アーロンは今、LAに住んでると聞きましたが、今のNYはどう見えますか?
アーロン マンハッタンに関して言うと、アンダーグラウンドのあらゆる文化についてはもう終わってるし、ああいうムーブメントが起きることはないだろうと思ってる。面白いことが起きているとしたら(ブルックリンの)ブッシュウィックとかベッドスタイとかかな。その辺りには個人的に知ってる若手のアーティストたちがいて、小さいアンダーグラウンドなギャラリーを運営してたりクラブをやっていたり、まだそういう動きがあるね。だけど、マンハッタンはもう終わってる。全部が高すぎてそういうことが起きにくい場所になっちゃったよ。


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