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ベンチャー企業転職後に人生のどん底を経験

「ビッグプロジェクトの一件で働き方を見直すきっかけができて、迷いつづけた結果でした。家族もいるから、このままサラリーマンやってた方が絶対いいんじゃないかと思ったり……。でも自分自身の力を試したいという欲求が勝ったんでしょうね」。
32歳での転職。企業の財務担当として何社か経験した。転機となったのは今でも鈴木さんがどん底だったと語る「転職先ベンチャーの清算業務」だ。
元々重工時代から得意としていた管理会計の知見に加え、財務マネージャーとして金融機関との折衝や会社法関連の実務など実績を積み上げた頃、ベンチャーの若手社長に「ぜひとも当社に取締役CFOとして来てもらえませんか?」とオファーを受けたという。
「取締役として誘われたことで、『将来100社の社長を支援するCFOになりたい』と漠然と描いていたキャリアプランが一気に広がった気がしました。これが落とし穴でしたね(笑)」。
その会社は当時流行りのネット系の広告代理店事業を手掛けており、詳しい調査もせず、取締役となることにふたつ返事でOKを出した。
ところが入社後よく調べてみると、今後の売上見込みがなかったり、買収元の全従業員が失踪してしまうという切迫した状況にあった。結局資金ショートとなり、社長は取締役CFOの鈴木さんに責任をなすりつけ、退任させたあげく、失踪してしまったのだという。
一方鈴木さんは、出資していただいていた個人投資家や金融機関に、半年近くも無給の状態で現状説明を続けた。家族のために会社を辞めることも考えたが、株主、金融機関の人たちにはきちんと説明責任を果たそうと思い、一人で苦しい時期を耐え抜いた。このことが今の仕事にもつながっているという。
「苦しい状況でサジを投げていたら、今こんなに仕事はこないでしょうね。あの時、逃げずに資金調達を達成するまで粘ったことを、僕の周りの人は知っているから」。
 

ソーシャルゲームの風雲児との出会いが人生を好転させた

どん底だった人生を好転させるきっかけとなったのはソーシャルゲーム業界の風雲児、株式会社gumiの社長である國光氏との出会いだったという。
「面接を受けに行ったその日、昼の13時から終電間際の24時近くまで國光さんにゲームについて熱く語られた日のことは忘れられない(笑)。僕がジョインした時のgumiは、間借りの事務所に10人ほどのスタッフがいるだけ。社長自ら給与や外注費などの振込をATMで行なっていて、僕の仕事は、まず社長にネット振込の存在と設定方法を教えることから始まりました(笑)」。
時代はフィーチャーフォン向けアプリからスマートフォン向けアプリへのシフトチェンジの変遷期。いち早くソーシャルゲームに目をつけたgumiは急成長を遂げ、現在では国内外で10社以上の子会社を持つ大企業にまでなっている。財務面では社長と二人三脚で会社を急成長させた鈴木さんだが、入社して約半年ほどして頭をかかえる時期もあった。
「2010年9月にgumiは上場会社のグリーから数億円の資金を調達し、それと同時に社員を一気に100人まで増やした時、打ち出したゲームがことごとく惨敗し、調達した数億円が数カ月でなくなるかもしれないという状況になった。僕は経理財務と共に人事や労務管理もしていたので、多くの人をリストラせざるを得なかったし、同時並行で次のブリッジファイナンスの交渉など、当時はCFO兼社内リストラ責任者として大車輪で動き回りました」。
鈴木さんはgumiが上場する2年前に新たな経験を求め同社を退職。その後、2015年3月に独立を果たす。ベンチャー企業の立ち上げから成長までの資本政策の相談やVC・金融機関と交渉する『レンタルCFO』として働くことを決めたのは41歳のときだ。企業の成長を肌で感じる疾走感が忘れられなかった。
「立ち上げ当初の熱気、社長と社員とが一丸となって何か大きいことをやってやるぞ! という距離感、自分がその中で参謀役となって社長と汗を流して伴走していくような感覚。ベンチャーのスタートアップってしんどいんだけど本当たのしいんですよ。もっとたくさんの企業のお手伝いがしたい、でも時間貸しのCFOはどこにもいない。それで、ないなら作っちゃえ! と思った(笑)」。
脱サラしたことに後悔はないか聞くと、こんな答えが返ってきた。
「もちろんサラリーマンを続けていても、ほどほどの人生を送れたと思います。でもこんなにワクワクすることも少なかったんじゃないかな」。
「一人の人間として会社の経営判断をできる存在になりたい!」というエリートサラリーマンの熱い思いは、ベンチャーでどん底の経験を経て、自由に企業を飛び回る一人の男に変えたのだ。

藤野ゆり(清談社)=取材・文


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