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「このときに、書で生きていく覚悟ができたんだと思います」。

同時に小林自身の名も売れ始めた。

「それで、同じ書をやるにしても何かしら注目される要素があったほうがいいということで、“ROCKな書家”として活動するようになったんです。サーフィンとかスノーボードが大好きで、Hi-STANDARDとかロックにもハマっていて、ヒステリックグラマーのダメージジーンズを履いて筆を振るう、みたいな」。
 
人との出会いが追い風になった
だが、本格的に変化を遂げるのはこの後。人生の師と呼ぶべき人物に次々と出会い、彼の書は劇的に変わることになるのである。

最初は石坂まさを。宇多田ヒカルの母・藤 圭子を世に出した作詞家である。小林によると「ある方に紹介していただいた」らしいが、何でしょうね、この人の謎の人脈。

「書家として紹介していただいて、石坂先生のご自宅にお邪魔するようになるんです。僕がお会いしたとき、先生は、糖尿病と脳梗塞でほぼ視力を失われていて寝たきりの状態だったんですが、お渡しした僕の書に感じるところがあるっておっしゃって。僕に“何か面白い話をしてください”って言われたんですね。それで路上カウンセリングの話とか、2008年に北海道で農業プログラムに参加して、ママチャリで東京まで帰ってきたエピソードをお話しして、随分気に入っていただいたんです」。

……ちょっと待て。「北海道の農業プログラム」? 「ママチャリで帰京」? その話はここで初めて出てきた。全然聞いていないのである。そんなドラマチックな経験を、ついでのように語る。今回ひとまず、それはさておく。

「それで毎週お宅にお邪魔してお話ししているあいだに、“キミは龍人にしたらいいよ”って。いまの名前をいただいたんです。先生のご本名が澤ノ井 龍二。僕が辰年生まれ。そして世に出たのも龍の書がきっかけ。初めてお会いしたのが2012年辰年、ということでご縁を感じていただいて、今のこの名前を授かったんです」。

そしてもうひとり。

白石念舟との出会いもあった。これもまた「小林さんにぜひ紹介したい人がいる」という知人からのお誘い。「強い男になる」活動の一環として、日本文化にまつわる会合やセミナー、勉強会などに出入りしていた関係で声がかかったという。茶道コンサルタントにして、国宝監査官・文化財調査官書跡主査の田山方南に師事し、掛け軸や茶器の目利き学んで書を研究した人物だ。

「白石先生がいないと僕の今の人生は成り立っていません。先生は田山先生から“日本文化を学ぶならば一次資料に触れなさい”と教わったそうです。すべて本物を触れねばならないと、歴史上人物の書を二百幅以上収集された方なんです。坂本龍馬だったり、高杉晋作だったり、中岡慎太郎だったり、さまざまな人々がその書をしたためたときの話を、まるでご自身がその場に立ち会ったかのようにフレッシュにリアルに語ってくれて。完全にやられました。『うわー、この人すげえ!』って」。



白石念舟と小林龍人。ふたりの背後、左側の書は坂本龍馬のものだ。

当時、白石は毎週のように若者を集めて勉強会を開いていたという。参加していた多くの若者が受け身だったのに対し、小林はガツガツと前のめりに話を聞き、勉強会ではないタイミングでも積極的に白石に食いついていったという。ちなみに、一番「ROCKを感じた」のは高杉晋作の書。

今の日本を作り出してきた男たちの、墨が飛び散り筆跡も生々しい書を目の当たりにし、ライブ感たっぷりに当時のエピソードを聞かされた。漢字を、甲骨文・金文・篆文から書き起こして、ルーツからの流れを学ぶ「白川文字学」を学ぶべしという指導を受けた。

ほぼ1年間毎週のように会い、白石から振られた話題に関してはヴィヴィッドにリアクションした。書道の指導を仰いだわけではなかったけれど、白石と触れ合った時間は小林の書に大きな影響を及ぼした。

2015年11月10日、白石念舟は73歳で旅立った。そのまさに2日前に白石の元に赴き、いつものように話をしていたという。


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