丸福珈琲店オープン。関西に喫茶文化の種を蒔く
さらに伊吹氏は、関西のシェフ仲間からのアドバイスもあり、コーヒー未開の地・大阪へと喫茶文化を普及させるべく「丸福珈琲店」をオープンした。昭和9年のことだった。
「いまでこそ全国どこでも同じカフェチェーンを見かけますが、当時のコーヒーは“ご当地の味”でした。学生街に行けば、そこの顔となる喫茶店があり、ジャズ喫茶がある。そんな時代のなか、丸福珈琲店もご当地の名店として愛されていきました」。
ただし、単なる地元の人気店ではない。ひときわ重厚なコーヒーに魅入られ、文豪や芸人も足繁く通う。丸福珈琲店は、正真正銘の名店となっていった。
関西のコーヒーは、関東よりも濃くて深い。現代まで脈々と続くこの傾向も、そんな丸福珈琲店の“ご当地の味”から生まれたという。
「戦後の脱サラブームで、関西でも喫茶店を出店する人が増えました。その際にお手本とされたのが、大阪で名を馳せていた丸福珈琲店。私たちのコーヒーは、当時から極端なまでの深煎りで、だけど後味はさっぱりとした一杯でした。だから関西のコーヒーも、深くて濃厚になったと言われています」。
「角砂糖」にまつわる物語
順風満帆に見える丸福珈琲店の歩みだが、冬の時代も経験した。第二次世界大戦。丸福珈琲店の歴史を語る上で、決して無視できない時代だ。
「当時、常連の方の多くが『赤紙が来たからこれが最後のコーヒーだ』と言い残し、戦地へと旅立っていったそうです。伊吹はお客様と丸福珈琲店で再会できる日を信じ、豆と角砂糖を地元・鳥取県の菩提寺に送り、守りました。そして、ほぼ1日も休むことなく営業し、その帰りを待ち続けました」。
その時代の名残は、現在の丸福珈琲店にも色濃く残っている。例えば、コーヒーに添えて出される角砂糖だ。現代ではスティックシュガーなどを用意するのが一般的だが、変わらずに角砂糖を使い続けるのには理由がある。
「丸福珈琲店では当時、ブレンドに2粒の角砂糖をつけていました。お客様はその角砂糖をナプキンに包んで持ち帰り、飴がわりにしてお子様に与えていたそうです。あるいは、子供や孫と訪れてコーヒーを一杯だけ注文し、角砂糖を食べさせてあげるお客様もいました」。
お菓子は手に入らず、コーヒーを飲むことも贅沢だった貧しい時代。ほんの2粒の角砂糖も、子供たちには憧れだった。
「当時のお子様がご年配のお客様になり、いまも丸福珈琲店に通い詰めてくれている。幼き日の思い出に耽りながら角砂糖を舐めたり、スプーンに乗せた角砂糖を少しだけコーヒーに浸して“珈琲飴”にして楽しまれたりする方もいます。だから、角砂糖をスティックシュガーに変えるわけにはいかない。お客様の大切な記憶を守り続けたいと考えています」。
変わらぬファンがいる限り、歴史と伝統を守り続ける
このように、古き良き何かを“守る”エピソードは、丸福珈琲店では枚挙に遑がない。店舗で提供しているコーヒーは、基本的には85年間受け継いでいるブレンドのみ。液体を注ぐ陶器、コーヒーフレッシュに至るまでこだわりを貫いている。
「使用している陶器は、伊吹の愛した『大倉陶園』の作品。一つひとつの器を、職人がさまざまなプロセスを経て作っていく姿勢は、私たちと相通じる部分があります。また、コーヒーフレッシュも深煎りのコーヒーに合わせ、乳脂肪46〜48%のものを。一般的なコーヒーフレッシュの乳脂肪は10%なので、業者の方からはパティシエでも使わないと驚かれますよ」。
このように一本芯の通った姿勢こそ、丸福珈琲店のポリシーだ。
「現代では、紙のカップにコーヒーを淹れ、おしゃれに立ち飲みするのがカルチャーになっています。それもひとつの楽しみ方ですが、私たちは“お座り”してゆったりと飲む、かつての日本で当たり前だったカルチャーを守りたい。私たちにはありがたいことに、20年、30年にわたって愛してくださるファンがいます。丸福珈琲店のコーヒーを求める人がいる限り、伝統の味とスタイルを守っていかなくてはならないと思っています」。
時代の変化はめまぐるしく、大切な何かを忘れさせる。時の流れに疲れたら、丸福珈琲店に訪れてみるといい。そこには長年受け継がれてきた味わいが、今日も変わらずに待っている。
佐藤宇紘=取材・文