しかし、「理系的センス」だけでもダメ
さて、冒頭から、悩める20代文系にはつらい話ばかりをしてしまっていますが、これらの「理系的センス」もしくは「科学的思考」が必要であるというのは、オッサン世代の読者の皆様には釈迦に説法かと思いますが、ベースの話です。これからのビジネスにおける基本となることは間違いありません。
しかし、あくまでも「ベース」です。ある程度、理系的用語や数字がわからないとやっていけない時代ではあると思いますので、基礎的なことは学んで「理系の人と言葉が全く通じない」という状況は脱出しなければなりません。
ところが、いくら理系的センスが重要視されてきていると言っても、それだけでもダメです。最近では政府が研究予算を減らすなどしてその地位がどんどん減退しているものの、もともと日本は、基礎研究は強いが、応用が苦手という時代が続いていました。
よく言われるのは、iPhoneの中身は多くが日本製品なのに……という怨嗟の声です。技術的には日本のメーカーがiPhoneを作っても全く不思議ではなかったのに、と。つまり、いわゆる理系的センスを持つ人たちだけがいても、ビジネスとしてはダメかもしれないということです。そして、iPhoneを作ったのはご存知の通り、非エンジニアのスティーブ・ジョブズです。
ユーザーに対する「想像力」が欠けていると意味がない
一説によると、スティーブ・ジョブズは、プログラムもそれほどできず、デザインも自分でできるわけではなかったようです。しかし、ビジネスパートナーであるスティーブ・ウォズニアックのような天才エンジニアや、ほかにも数々の天才的なスペシャリスト(その多くが理系的センスを持つ専門家達)をまとめ上げて、マッキントッシュやiPhoneなどの革命的な製品を作ることができました。
彼は、自分で作ることはできなくとも、最終的に製品を使うことになるユーザーのインターフェイスに徹底的にこだわり(あるいは、そこにしかこだわることができず)、それらの素晴らしい製品を作ったわけです。
専門知識に詳しくないジョブズからのオーダーに、専門家たちはさぞかし苦しんだことでしょう。「そこまで言うなら、自分で作ってみろ」と思ったかもしれません。しかし、知らないことが力になることもあります。技術は、使われないと意味がなく、使う人(ユーザー)が満足しなければ使われません。
ジョブズは、自らの最も得意な領域(あるいはそれしかできない領域)であるユーザーに対する想像力を最大限生かし、どうすればユーザーが素晴らしい体験をすることができるのかのみを追求したわけです。それが世の中を変えるような製品の出現をもたらしたのではないでしょうか。
なまじ、専門家の気持ちがわかったなら、もしかすると、ジョブズの偏執狂的なこだわりは発揮されず、中途半端な製品しかできなかったかもしれません。
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