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若くして辿り着いてしまったトップの座


その後、期せずして、アスキー系グループ会社の代表取締役社長就任の話が舞い込み、オリコンを辞することを決意するが、当然葛藤は大きかったという。
「一緒にやってきた方々ともうまく連携して結果も伴ってきていたので、迷いはすごくありましたね」。
しかし、水上さんは挑戦の姿勢を崩さなかった。ITバブル前夜の2000年代初頭、招かれた企業は、他の先端企業に負けない圧倒的な技術力をもっていた。当時、映像系のシステム構築にはさまざまな需要があり、エンタテインメントコンテンツ配信のほか、教育現場で授業に使ったり、テレビ局と協業したり、カスタマイズしてイントラネットの仕組みとして使ったりと幅広く対応できる面白さもあったという。在籍した2年間、自ら先頭に立ち続けた。
「周りはみんな自分より年上の人ばかり。だからこそ、まずは自分が動いて結果を出すことを重視していました。これで周りも認めてくれる側面はありましたが、社長というポジションは苦労の連続でしたね。成長させて頂きました。ただ、あくまで交渉して提供してもらったコンテンツをお届けするサービスがメインだったので、コンテンツに直接関わっているんだというリアル感がビジネスとして薄いと感じたこともありました」。
35歳で任期満了。普通の会社員であればゴールともいえるポジションを若くして掴んでしまったゆえ、「ここからどういう道を行くか、常に自問自答していたような気がする」という水上さん。その後、どのように舵をとることを決めたのか。
「自分の人生を振り返ると、やはりエンタメと経営か……。そのなかで特にコンテンツを生み出す、音楽事業という点に惹かれて、日本コロムビアに転職。全制作部門・宣伝部門のトップとしてその統括にやりがいを見いだし、力を注ぎ続けました。それと同時にフジサンケイグループのグループ会社の取締役も務めました」。
13年間在籍した日本コロムビアでは、ときに重役として苦渋の決断を迫られる時期もあった。不況のあおりをうけ、部下たちからの仕事先の紹介を頼まれた時には、心を痛めて奔走したことも。しかし、なにより最高な仲間と充実した仕事をやり続けることができたのは大きな財産になった。その後、しばらくして自分の今後をじっくり考えて、とことんやり切った日本コロムビアを卒業し、より経営力を増強したいという気持ちが強くなっていたという。
そこからは斬新な企画力に惹かれた東京MXテレビの企画マーケティング部長を務めるなど、挑戦を絶やさず、40代に突入してもなお、水上さんは走り続けた。仕事にかける熱意の源は、いったいどこからやってくるのだろうか。
「気づいたら、仕事ばかりの人生になっちゃいましたね。当然悩んでいる時期も多いんですけど、常に仕事のことが頭にある。やるからにはとことんやりたい性分なので、もう仕方ないんですよね。今はワークライフバランスみたいなことも叫ばれがちですけど、僕は定時で即帰宅して……みたいなことは性にあわないのかもしれません」。
そんな水上さんは50代を目前にして、医療業界へと踏み出すことになる。その経緯は、後編で明らかにしていこう。
取材・文=藤野ゆり(清談社) 澤田聖司=撮影


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