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息子のことを慮ったのかどうか、お父さんの気持ちはわからない。だが、事実としてはそれが1987年であったということ。実家の不動産会社は空前の超好景気に見舞われていたのだ。
「数千万円の物件がポンポン売れていくんですよ。そんな高いものをなんでそんなに一瞬で買っちゃうんだろうって」。
実家からの呼びかけに、久古さんは本腰を入れて応えた。板前を続けながら、勤務後夜学に通って3カ月で宅建の試験に一発合格。バイクは売った。実家の会社には、社長のお父さん以外に事務の人が2人、久古さんは貴重な戦力となった。
バブル真っ只中の不動産屋さんはめちゃくちゃ面白かったという。
「不思議というかなんというか(笑)。自社で建売やってたんですけど、月1~2回メンテナンスに行くんですね。現場で作業してたら、チャリンコで通りかかったおばちゃんが“これ売り物?”って……」。
「あ、はい」
「いくら?」
「6000万円ですけど……」
「ホント? じゃあ名刺ちょうだい」
「こんなやりとりの後、その日の夕方本当に買いにくるんです(笑)。作業着で水道の調子見てる兄ちゃんに“売って~”って。そのダイナミックさには興奮しましたね。あと地元なんで、先輩とか後輩の家も世話するんですよ。自分を通じて売られたものが、みんなの生活のベースになってるのって、なんかいいもんだなと思いました。その辺が不動産屋の醍醐味ですよね。そうやって物件扱ってるうちに、目が肥えてきて、もっといいものが出てくるはずだって待ってるうちに、僕自身は買う時期を逸してしまいました(笑)」。
バブル崩壊後も、お父さんの会社は盤石だったという。
「オイルショックを経験してるんで、そもそもバブルの最中でも“これは実体のない景気だから”って、調子に乗らなかったんですよ。びっくりしたのが、一昨年に亡くなったんですが、無借金だったこと。自社で物件を抱えすぎずに、ちょっとでも難しそうなのはすぐ仲介に流してましたからね。うちはそれでうまくいきました」。
仕事として好調だったし、何より自分自身が楽しめもした。「自分はこのまま不動産業でいくんだろうな」と思った。板前のときも思ったけれど、それよりもかなり確信を持っていた。
そんななか、初めてゴルフクラブを手にした。


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