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2018.12.01

ライフ

大宮アルディージャ・南雄太さんを強くした「空白の1年」


「39歳になった今も、こうしてピッチに立てているのは、10年前に過ごしたあの1年があったからだと思います」。
Jリーグで通算576試合(2018年12月1日時点)もピッチに立ち、所属チームのゴールに鍵をかけ続けてきた国内有数のゴールキーパー、南雄太(39)。彼には、プロサッカー選手として過ごしてきた21年間のなかで、たった1度だけ、1試合もピッチに立てなかったシーズンがある。柏レイソルで過ごした最後の年、2009年のシーズンだ。南にとっては、まさに「空白の1年」である。
 

将来を嘱望された若き日

南がサッカー選手として頭角を現したのは、高校1年生のときだった。小・中学生の頃は、Jリーグの下部組織に所属するも、レギュラーにはなれずにいた。しかし、サッカーの名門、静岡学園高校に進学するとすぐに、南に最初の転機が訪れる。
1年生ながら、試合に大抜擢されると安定したプレーでチームを勝利に導く活躍をする。そのまま正ゴールキーパーの座を奪うと、続く冬の風物詩である全国高校サッカー選手権大会では、全国制覇を成し遂げた。
南の活躍は国内にとどまらず、世界へと続く。
高校3年生になると、飛び級でFIFAワールドユース選手権(国際サッカー連盟が主催し、2年ごとに開催される20歳以下のワールドカップ。以下ワールドユース)のメンバーに選出され、ベスト8進出に貢献。さらにJリーガーになってから挑んだ2度目のワールドユースでは、準優勝の快挙を達成した。
中田英寿や中村俊輔ら、キラ星のごとく輝くスター選手たちとともに、「黄金世代」の一員として、将来を嘱望されたのだ。

苦難が続いたプロ生活

このように、エリート街道を歩み始めたかのように見えた南のサッカー人生だったが、そう簡単にはいかないのが人生である。それがプロスポーツの世界ならなおさらのこと。
Jリーグ入り初年度から、柏レイソルの正ゴールキーパーとして、ピッチに立ち続けるも、好不調の波が大きいことを指摘され、2002年以降は、サッカー日本代表からも徐々に遠ざかっていく。南が入団して5年目以降は、柏レイソルは下位争いを余儀なくされ、2004年には、自陣のゴールにボールを投げ入れるという大失態を犯してしまう。
「伝説のオウンゴール」とまで言われるほどのプレーに、ファンからは大バッシングを受け、ミスが失点に直結するゴールキーパーというポジションの怖さを、死にたくなるほど思い知らされた。その翌シーズンである2005年、柏レイソルは、J2降格という憂き目にあってしまう。

5歳年下のライバルからの刺激


1年でJ1への復帰を果たすも、再びチームは下位に低迷。そして、2008年、南の前に、運命のライバルが出現する。5歳年下のゴールキーパー、菅野孝憲が前年度の新人王の勲章を提げて、新たにチームに加入したのだ。
「なんで俺がいるのにゴールキーパーを補強するんだよ」。
南がこう思ったのは想像に難くない。だが、Jリーグでも1、2を争うほど小兵のライバルは、身長が低いというハンデを補うために、ありとあらゆることにストイックに取り組み、試合に向けて準備をする真のプロフェッショナルな男だった。サッカーファンの注目を集めたゴールキーパーのポジション争いは、結果的に、菅野に軍配があがる。シーズン後半になると、南は完全に正ゴールキーパーの座を失い、これを機に、出場機会は一気に減っていった。
「俺、12年間、柏レイソルに在籍していたんですけど、最後の1年半は、完全に試合に出られなくなりました。はじめの頃は、監督の好みじゃないからとか、何か理由を探しては、自分の課題から逃げていたんです。でも、全く試合に出られない時期が続くと、だんだん気付いていくんですよね。自分に足りないものがあるんじゃないかって。矢印が周りじゃなくて、自分に向き始めたんです」。
試合に出られない日々が続くなかで、自分の足りないものに目を向けるようになった南は、技術面、体力面、精神面のすべてを見つめなおし、生活そのものを変えた。こうして、自分自身の課題に向き合いながら、日々の練習に取り組んでいくと、少し上手くなっているような、自分が成長しているような手応えを感じ始めていく。
だが、ゴールキーパーというポジションは、チームに1つしかない。その成長を披露する機会を得ることはなく、南は、柏レイソルから戦力外通告を受けることになった。

再び成長曲線を描き始めた新天地での活躍

再起を誓って加入したロアッソ熊本での1年は、南のサッカー人生のハイライトといって良いほど、充実したものとなった。九州は熊本の小さなクラブながらも、J2で7位の成績をあげ、南自身も、プロサッカー選手になって初めて、年間を通してフル出場を果たしたのだ。南にとって、年間フル出場という結果は喉から手が出るほど欲しがっていたものだった。なぜなら、それは、チームからの信頼の証だからだ。
柏レイソル時代の南は、加入してからの10年間、数多くの試合に出場するも、毎年何試合かは控えに回ることがあった。本来、ゴールキーパーは、変えが効かないポジション。少しくらいチームの状態が悪くなったとしても、選手を簡単に入れ替えるポジションではない。
だが、監督から好不調の波が大きい選手と捉えられていたのだろう。南は、チームの調子が悪くなると変えられた。そんな過去も、「いま考えれば、あまり信頼されていなかったんでしょうね」と笑って話す。

南は、ロアッソ熊本で充実した4年間を過ごしたのち、現在の所属チームである横浜FCに加入した。すでに横浜FCに加入して5シーズン目を戦い終えたばかりの南だが、昨シーズンは、開幕戦で大怪我を負い、リーグ戦の出場は開幕戦の1試合のみ。
さらに今シーズンもメンバー入りこそ果たすものの、シーズン序盤は、控えとしてベンチを温める日々が続いた。だが、6月にピッチに立つと、そのまま正ゴールキーパーの座を手に入れる。25試合に出場し、チームのプレーオフ進出の立役者の一人に。なんと、無失点に抑えた試合は13を数える。

長く活躍できているのは、あの1年のあの出会い

39歳という年齢は、アスリートとしての身体的なピークはとうに超えていると言って良いだろう。だが、それでも、南はふたたび成長曲線を描き始めた。その秘訣はどこにあるのかを聞いてみると、少しだけ間を置いて、こう答えた。
「スゲ(菅野孝憲。以下、スゲ)と出会ったことですかね。あいつにポジションを奪われてから、気付けたことがたくさんありました。俺らが試合で見せられるのはたった90分しかないわけじゃないですか。だからこそ、試合が終わってからの約1週間が重要なんですけど、若い頃は、変な過信があって、そこまで気にしていませんでした。
その点、スゲはすごくプロフェッショナルで、“まだまだ足りないな”って思わせてくれました。自分のサッカー人生がここまで伸びているのは、スゲと過ごしたあの1年があったからだと思います。1試合も出ていないので、公式の結果には何も残っていないんですけど、そのときに積み上げたこと、自分に矢印を向けられるようになったことは、本当に大きかったと思います」。
39歳になって、体力的なピークは過ぎていても、成長を遂げ続けている南雄太。その陰には、若い日にライバルから学んだ仕事へのプロフェッショナルな姿勢と、それを受け止める素直な心があった。

僕たちは、若者の才能を羨ましく感じることが少しづつ増えてきた。体力的には、もう若者にはかなうはずもない。でも、南のサッカー人生を見ていると、まだまだ、可能性がたくさんあることに気づかせてもらえる。
若者に後塵を拝することもあるだろう。いくら努力しても結果が出ないときだって、もちろん、ある。でも、ブレずに真摯に取り組んでいさえすれば、その努力はいつか必ず報われるときがくるのだ。それが何歳になったとしても。
 
瀬川泰祐=取材・文


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