OCEANS

SHARE

「当時の400ccクラスでは最高に性能のいいマシンでした。あの頃の成田の走り屋たちは“ニュータウン”に行ってたんです。造成はされていたけど家がまだ建ってなくて、恰好のサーキットでしたね。ちょうど7分で1周できるぐらいの周回路があって……」。

いやはやもうなんというか、堰を切ったように話が溢れ出す。そりゃもうバレーボールどころではなかった気持ちが、30年以上たってもひしひしと伝わってくるのである。
「……成田ニュータウンの真ん中に赤坂公園っていうのがあってね、その前の駐車場からスタートしてタイムを取るんです。公道だからもちろん信号はあって、周回途中に赤信号になれば停まらなきゃならないんだけど、いっつも走っているとだいたいどのタイミングでスタートを切ると信号に引っかからないかがわかってくるんですね。それで信号をやり過ごしながら周回するという(笑)。当時でいうローリング族をやってました」。
小学生のころにF1の中継を見てモータースポーツにハマったという。1976年シーズンの最終戦は富士スピードウェイで開催され、フェラーリのニキ・ラウダとマクラーレンのジェームズ・ハントがチャンピオンを争う戦いとなった。当時はスーパーカーブーム全盛。池沢さとしの漫画「サーキットの狼」や、テレビ東京の「スーパーカークイズ」などが人気を博し、多くの小学生男子はスーパーカーと、その向こうにあるモータースポーツの世界観に夢中になったものだが、久古さんの場合は筋が通り過ぎていた。
「本当はレーシングドライバーになりたい、と思ったんです。でもあれってめちゃくちゃお金のかかる世界でしょ? だからラジコンに行きました。中学生のときに、親父の不動産屋で仕事していた内装業者でバイトをさせてもらって、まずクルマ(のラジコン)を手に入れたんです。もちろんエンジンです(笑)」。
雑用しまくりで日当5000円、夏休み毎日働いて手に入れたマシンはデビュー戦で砕け散った。
「成田の端っこのほうに広域道路というのがありましてね。田んぼ沿いに道が一直線に続いてるんです。そこでラジコンを走らせたんですよ……気分的には、100km/hぐらい出てた気がします(笑)。仲間の運転するスーパーカブに2ケツして後部シートから操縦して、ラジコンをずーっと追っていくんです。ところがラジコンがカーブを曲がりきれずにコースアウトして用水路に……僕らは止まればいいのに、なぜか追っかけてるスーパーカブごとふたりしてそのまんま用水路にドボーン!って(笑)」。

事件はすぐに発覚し、友達の親父にぶん殴られながらも、用水路に落ちたスーパーカブを引き上げるミッションは滞りなく展開。沈んだバイクにロープをかけてみんなで引っ張る大騒動になるなかで、久古少年は「僕のラジコンも沈んでるんです」とは言い出すこともできず、ひと夏のバイトの結晶は成田の用水路の藻屑と消えたのでした。
が、F1で芽生えたモータースポーツへの熱は冷めやらず。
「そのあとは、“今度は空中だ!”と、また同じ設備会社でバイトしてヘリコプターのラジコンを手に入れて……当時『ラジコン技術』っていう分厚い技術書があったんですけど、それで操縦法をみっちり勉強したはずだったんですけど、自分で組み立てたからどこかバランスが悪かったんでしょうね…… 飛ばしたその日に墜落、全損(笑)」。
ゲラゲラ笑う取材陣に、「それでは終わんないですよ」と久古さんが追い打ちをかける。
「最後は飛行機を飛ばしました。これも一発でおっこちちゃったんですけどね」。
全部自分でバイトして稼いだお金で遊んだもの。で、全部、買うや否やクラッシュ。
そんな中学時代を経て、バイクブーム真っ只中の高校生活へとたどり着く。
なかなかプロゴルファーを目指さなくて申し訳ないのだけれど、これが久古千昭の真実だからしょうがないのである。子供のころから夢見ていた“何かプロスポーツの選手”という未来像が、その後、バイクと結びついて成熟して行ったとしても決して不思議な話ではないのだ。
「うん、高校時代には僕の夢は、世界を転戦するバイクのロードレーサーということになっていました」。
そして「僕の高校時代の名簿に“卒業後の進路”って出ていないんですよ」と笑う。というのも、高校を卒業する時点で公式の書類に記すことができる進路が決まらなかったのだ。夢とか絵空事ではなく、そのときには本気で「バイクのレースで食っていく」ことを目指していた。だから、とにかくバイクでレースにチャレンジできる環境を目指したのだ。
それがいわば久古さんの「第一の人生」。
だが仮にこれがうまくいっていれば、高校の卒業時のデータには「ロードレーサー」なんて書かれているわけである。
2018年を生きる我々は、彼がロードレーサーになっていないことを知っている。だが一足飛びにプロゴルファーになるわけではない。彼はバイクにどんなふうに取り組み、どんなふうに挫折したのか。
次回はそのお話。
【プロフィール】
久古千昭さん
1965年、千葉県成田市生まれ。26歳で初めてクラブを握り、脱サラの末プロゴルファー研修生を経て31歳でプロテスト合格。現在、「梶川・久古ゴルフアカデミー」主宰。プロゴルファーでありつつ不動産業を営む。
 
稲田 平=撮影 武田篤典=取材・文


SHARE

次の記事を読み込んでいます。