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2018.08.25

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人気漫画家・三田紀房が、ヒット作を目指したターニングポイント


OCEANS’s PEOPLE ―第二の人生を歩む男たち
人生の道筋は1本ではない。志半ばで挫折したり、やりたいことを見つけたり。これまで歩んできた仕事を捨て、新たな活路を見いだした男たちの、志と背景、努力と苦悩の物語に耳を傾けよう。三田紀房は大学卒業後、百貨店勤務を経て経験ゼロから30歳で漫画家デビューを果たした。そして当代きっての売れっ子のひとりに。その人生、いったい何があったのか。
>三田紀房さんのインタビューを最初から読む
 

家業からの解放で漫画が楽しく描けた

家業を畳んで専業漫画家となった三田さん、その当時は“都合のいい漫画家”だったという。自分が何を描きたいというよりは、編集部から振られればどんなネタでも漫画にした。料理、競馬、麻雀などなど、やったことのないものでも編集部からのオファーあれば断ることはなかった。
「東京に出てくると、ちばてつや賞の講談社以外にもいろいろお付き合いができました。それでなんかいろいろ短期連載とか読み切りとかの企画がもらえたんです。1980年代の後半って、マンガ雑誌は全盛で増刊号とか別冊が次々と出て、描き手のほうが不足していたんだと思います。僕はどんなネタでも話のプロットを組み立てるのが得意で、チャチャッとそれなりのものに仕上げて渡すんで、各編集部には重宝されてたんだと思いますよ。オファーのある仕事をこなしていれば十分に食えたし、連載みたいに人気をキープしないと打ち切りになる……みたいなプレッシャーがないから気が楽で、楽しいなあって思っていました」。
比較的気楽に漫画を描いて生活が成り立っていたこともあるけれど、三田さんによると、その頃大きかったのは「店の維持」という重圧から解放されたこと。
「“漫画を描いて生活を成り立たせる”というよりも、何より自分の中での目的は“店を閉める”ということを達成できたことだったんです。どうやって店をやめるかがその何年かでの自分の中の課題だったから、それを成し得て晴れて東京に出てきて解放されたのが大きかった。仕入れも支払いもなくて、目の前にある白い紙に漫画を書いて出せば生活が成り立つという状態がすごく楽で、だから振られたものでもちゃかちゃかやってるところに安住してたんですね」。
そんな時代は5年ほど続いた。三田さん自身も「どんなテーマでもある程度のクオリティの作品に仕上げる」ということを自身の強みとして自覚していた。だが『漫画ゴラク』で連載が始まった『クロカン』がターニングポイントとなった。
(C)三田紀房/コルク
テーマは高校野球。創立90年以上の歴史を持ちながら一度も甲子園出場を果たせない桐野高校監督に就任し黒木竜次が、野球部を甲子園に導く。教育者としても指導者としても、教科書から完全に逸脱した型破りな方針を実践し、見事に結果を出していくのである。


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