高級ライター、万年筆で有名なエス・テー・デュポンだが、その歴史はオーダーメイドのトラベルケース製作からスタートしている。現在ブランドの代名詞となっているライターは、どのようにして生まれたのか。取締役社長であるアラン・クルベ氏にインタビューをした。
エス・テー・デュポンとは?
1872年、シモン・ティソ・デュポンが創設したフランスのラグジュアリーメゾン。日本ではライターやペンはよく知られているが、バッグやウォレットなどのレザーアイテムも充実している。ライターの製造が始まったのは1941年。2016年に誕生75周年を迎えた人気アイテムで、コレクターも多い。古くはナポレオン3世、オードリー・ヘップバーン、ハンフリー・ボカートと、そうそうたる人物が顧客として名を連ねている。
「“日本のためのライター”を作れたことがうれしい」
高級ライターでその名を知られるエス・テー・デュポン。しかしその出自を詳しく知る人はそう多くないだろう。アラン・クルベ氏はブランドの誕生から語り始めた。
「創業者のシモン・ティソ・デュポンは、若い頃パリでナポレオン3世のカメラマンを務めていました。しかし国内で戦争が始まり、故郷のオート=サヴォワ県(※1)に戻ることになったそうです。そこでレザーの鞣し技術を習得し、1872年、戦争後のパリで旅行鞄と革製品の工房を開きました。カメラマン時代に得た著名人たちとのコネクションもあり、オーダーメイドのトランク製作(※2)は軌道に乗りました」。
その工房にはモットーがあった。
「当然ですが普通は鞄だけを作ります。でもシモンは鞄の“中身”まで工房で作りました。香水ボトルやスキットル、手鏡。実にユニークなスタイルですが、“客の要望すべてに応える”というモットーがあったからなんです」。
ブランドの転機は1941年。インド・パティアラ藩のマハラジャ(王)が注文したイブニングバッグ100個と、その中に入れる純金のライターが完成したのだ。
「当時の社長であった2代目のルシアンは、ライターも自社で作ると決断しました。開発から3年。これがブランド初のライターになります」。
その後はトランクに加えてライター製造にも力を注ぐことになる。世相も大きく影響したようだ。
「第二次世界大戦中は物資が不足しており、トランクに使用するレザーの入手が困難でした。職人を雇い続けるためにも、バッグ製造以外の事業を展開する必要があったんです。アメリカからのタバコの輸入が増え始め、多くの人が喫煙する時代を迎えたことも理由のひとつです」。
高品質で美しいデザインのライターは、たちまちセレブリティたちの間でステイタスシンボルとなった。
「トランクや小物作りで培ったギョーシェ彫り(繊細で規則正しい彫り)や漆塗りの技術を、ライターの外装の細工に活かせたことも幸運でした」。
こうした成功は単なる幸運ではなく、ブランドとして貫いてきた“客の要望すべてに応える”という姿勢の賜物であろう。もちろんそれは今の社長、クルベ氏にも受け継がれている。
「私たちの企業ロゴにはブランド名と“BE EXCEPTIONAL”の文字が入っています。“お客様に特別なものを”という意味です。このモットーはこの先ずっと変わることはありません」。
2011年の東日本大震災発生後、クルべ氏はすぐに日本に駆けつけ、“HOPE FOR JAPAN”という復興コレクションを発表。赤いラッカーをベースに桜を描いたボールペンとライターを販売した。売り上げの一部は日本赤十字社を通じて被災地に寄付された。
「とても悲しい出来事でしたが、このコレクションの発売は、ここ10年で最もうれしかったことでもあるんです」。
ブランドが長く続く理由のひとつは、こうした“思いやりの心”にあるのではないか、と感じた。
オート=サヴォワ県(※1)フランス東部のスイス国境に接する県。1924年、この県のファヴェルジュという街に工房をパリから移転。2008年に火災で半壊したが、2年かけて復旧。現在もここで製品を作っている。
オーダーメイドのトランク製作(※2)当時「隠しポケットを備えたトランク」の発注があった。依頼主は受け取りの際、隠しポケットに銃をしまったという。のちにその客が逮捕されたとの報道が。その人物はなんとアル・カポネだった。
髙村将司=文