今回も、よく聞かれる質問に答える形で、解説しましょう。
Q1. 豊臣秀吉はどんな人物ですか?
1537年、尾張国中村郷(名古屋市中村区)の下級武士(農民とも)、木下弥右衛門の子として生まれ、放浪生活などを経て織田家に仕えました。織田信長の下で早くから能力を発揮し、雑用係から最有力家臣へと出世を遂げると、本能寺の変後は信長の「実質的な後継者」として、天下統一を完遂しました。
豊臣政権を樹立した彼は、さらに明(みん/中国)の征服をもくろみますが、その途中の1598年、62歳で死去しました。
相手の心をつかむ才能に長け、「人たらし」の異名をとります。
Q2. 「人たらし」の由来はどんなところにありますか?
やはり、彼の出自による影響が大きいでしょう。低い身分からのスタートだった秀吉は、並み居るライバルたちとの厳しい出世競争を勝ち抜く術を身に付ける必要がありました。
その結果、彼は信長とは違った、武力を用いずに相手を懐柔する「人たらし」を習得し、家中での出世はもちろん、後の政権樹立の際にもこれをフル活用しています。彼が信長家臣団に連なった折に、先輩筋の「丹羽長秀」と「柴田勝家」両名を立てて名跡を借用し、「羽柴」を名乗ったことは有名です。これも「人たらし」の秀吉らしいエピソードでしょう。
そんな彼が「人たらし」を実践するにあたり、最も多用した手段こそが「接待」「接遇」だったのです。
「接待」は、「武力行使」よりも効率的
Q3. なぜ秀吉は「接待」を重要視したのですか?
利点が多く、効率的だからです。
戦国時代は、その名のとおり、相手を自分に屈服させる手段としては「合戦」が中心でした。しかし、こうした武力解決は、たとえ勝利したところで味方にも人的被害が少なからず生じ、大きな負のリスクが伴います。
また、民衆の統治も、武力で一方的に威圧すれば、最終的に一揆などの反乱を招くこともあり、逆効果です。
これに対して、平和的な「接待」「接遇」戦術を用いれば、屈した相手がそのまま味方にもなり、一挙両得というわけです。
秀吉が行った「接待・接遇とその効果」を、数々の事例から解説しましょう。
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