サブカルチャーとメジャーの深くて長い谷を飛び越えた『ブギー・バック』
1994年2月に、小山田圭吾がコーネリアス名義で1stフルアルバム『ザ・ファースト・クエスチョン・アワード』を発売。軽くてキャッチ―でとにかくポップな楽曲がぎっしり詰め込まれた、サービス精神たっぷりのアルバムである。私はさっそくコーネリアスのロゴマーク入りTシャツを入手し、ネルシャツを合わせるというCDジャケットと同じコーディネートで、大阪の心斎橋・アメリカ村の中古レコード屋を小山田圭吾気取りで闊歩したものである。
「『渋谷系』再考論」を最初から読むそして3月。小沢健二とスチャダラパーがシングル『今夜はブギー・バック』を別々のレコード会社から2枚同時リリース。“カラオケで歌えるヒップホップ”なるキャッチコピーがつけられており、“渋谷系”のお洒落音楽というより「当時マイナーだった日本語ヒップホップがメジャーシーンでどこまで通用するのか実験してみよう」的な楽曲であった。元々スチャダラパーと小沢健二を知っている人たちにとっては、「レコード会社が違うのに、コラボするなんて画期的」「この2組、マンション一緒でよくつるんでいたから自然な流れでしょ」みたいな反応で、あくまでサブカルチャー文脈での理解が先行していたが、あれよあれよと本当にメジャーで売れてしまい、結果的には50万枚を超えるヒット作となった。
売れた要因は何なのか。スチャダラパーのBOSEが「ポンキッキーズ」や「コロコロコミック」に出たりして知名度が上がっていたとか、「よくなくなくなくなくなーい」のような口に出して読みたいキラーフレーズがあったからとか、小沢健二のかわいい顔して色っぽい声がよかったとか、タモリの「ボキャブラ天国」のテーマで使われたからとか、いろんなことが考えられるが、私としては「時代の空気とマッチした」としか言いようがないように思える。だからこそ、2017年現在、40代の同世代が集まるスナックのカラオケで全員が大合唱できるのである。サブカルチャーとメジャーの深くて長い谷を、軽々と飛び越えていった初めての楽曲が、『今夜はブギー・バック』だったのではないか。ちなみにコーネリアスを歌っても、残念ながら大合唱にはならない。
マイナーな“渋谷系”をミリオンヒットに加工したのは、ミスチルだった
“渋谷系”ブームと『ブギー・バック』のスマッシュヒットのおかげで、“メジャーで発売しているけどいまいち売れないアーティストたち”に光が当たるようになる。スピッツ、フィッシュマンズ、b-flower、L⇔R、スパイラル・ライフなど、名前を挙げればキリがなくなるほど。
しかし、その流れの中でひときわ輝きを放ったアーティストがいる。Mr.Children、通称ミスチルである。バンド名はイギリスのインディシーンでそこそこ売れた「レイルウェイ・チルドレン」の影響だとか、ジャケットはコムテンポラリー・プロダクションの信藤三雄氏が手掛けているとか、“渋谷系”的な要素を持ちつつも、ミリオンヒットを連発していくのである。94年の『イノセント・ワールド』と『トゥモロー・ネヴァー・ノウズ』は、それこそ老若男女問わずバカ売れしたし、カラオケでは“世代の歌”ではなく“時代の歌”となった。
94年はバブル経済がはじけて株価が急落、“就職氷河期”が流行語になるなど景気は失速していたのだが、そんな状況でもCD売上は拡大しており、18枚ものシングルが100万枚以上売れた。その年間チャートの1位が『イノセント・ワールド』で180万枚売れたのだから、レコード会社は“ネクスト・ミスチル”を作り出そうと血眼になったのもわかる。レコード会社にとって、“渋谷系”のくくりは次のミリオンヒットを生み出す予備軍のような扱いに変わっていった。
私が渋谷区に住んだときには、“渋谷系”は終わりを迎えていた
94年8月に小沢健二は2ndアルバム『ライフ』を発売。前作とは異なるアッパーな曲が多く、ついに大ブレイクを果たす。CMタイアップ曲『カローラⅡにのって』も80万枚売れ、TVでも「王子様」「小澤征爾の甥」「東大卒」等の認知が拡大。翌年には紅白歌合戦にも出場し、“渋谷系”の文脈で語る必要もないくらいメジャーな存在となっていく。
95年になると“渋谷系”のフォーマット(洋楽元ネタの音楽+なんとなく意味ありそうな歌詞+お洒落なジャケット)が、飽きられてくるようになる。象徴的だったのがフリッパーズのフォロワーを自認していた「サニーデイ・サービス」の変わりっぷりである。雨後の筍のように“渋谷系”フォロワーが乱立していく中で、「サニーデイ・サービス」は渋谷系の源流ともいえる70年代邦楽のフォークロックやシティポップをトレースするようになる。“渋谷系”フォーマットの解体のはじまりである。
95 年の4月、私は大阪で過ごした4年間の大学生活を終え、ついに東京で就職することとなった。最初に住んだ社宅の住所は“渋谷区初台”。高校生のときにフリッパーズに恋い焦がれ、“渋谷”への憧れを強く抱いていた私は、宇田川町のレコードショップやミニシアターを攻めに攻めまくる――はずであった。しかしすでに“渋谷系”は消費されつくしており、かつ渋谷が実はチーマーの街で、ベレー帽姿でアナログレコードを抱えて歩いている人は、渋谷ではなく下北沢ににいた。そしていつしか私はレコード店にもミニシアターにも、足を運ばなくなった。
結局、私は“渋谷の街”でほとんど遊んでいない。むしろ渋谷ではなく、大阪の心斎橋・アメリカ村にいたからこそ“渋谷系”をカルチャー・ムーヴメントとして味わい尽くせたのかもしれない。“渋谷系”がなければ、私の大学生活がサブカルチャーに彩られることはなかっただろうし、邦楽がJ-POPに進化することもなかっただろう。
では“渋谷系”とは何だったのか。乱暴に言えば、それもバブル経済の産物だったのだと思う。レコード会社も出版社も映画配給会社もみんな元気だったから、あらゆるサブカルチャーが発掘される余地があった。“渋谷系”アーティストやカリスマバイヤーたちを通して、私はそれらのカルチャーの咀嚼の仕方を学ぶことができた。そしてその学びは、40歳をゆうに過ぎた現在でも、連綿と続いているのである。
(おしまい)
取材・文/藤井大輔(リクルート『R25』元編集長) 1973年富山市生まれ。95年にリクルートに入社し、31歳のときにフリーマガジン『R25』を創刊。現在はフリーランスの編集者でありつつ、地元富山では高齢者福祉に携わっている。