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2017.05.15

ライフ

渋谷が世界で一番“グルーヴィー”な街だった~渋谷系再考論(4)

日本で起こった「世界初CD化ブーム」とカリスマバイヤーたち

1991年に3rdアルバム『ヘッド博士の世界塔』をリリースした後、突然解散を発表した「フリッパーズ・ギター」。彼らの“元ネタ”を通して、過去のポストパンクやネオアコ―ティックやソフトロックの名盤に出会えたことは、当時大阪で大学生活を送っていた私にとって幸福なタイミングだったと思う。
「『渋谷系』再考論」を最初から読む
1991年末、解散後にリリースされたフリッパーズ・ギターの編集版『カラー・ミー。ポップ』
90年代に入って音楽マーケットは拡大の一途を辿っており、’91年には史上初4000億円の大台にのる。その要因はCD売上の伸長で、総枚数は3億枚を突破。日本は世界第2位の音楽市場規模となり、邦楽ではミリオンセラーヒットが生まれ(’91年は『SAY YES』が280万枚、『ラブストーリーは突然に』が260万枚売れた)、洋楽では過去音源の発掘が盛んに行われた。「世界初CD化!」「日本盤のみボーナストラック付き」といったCDが、毎月のようにCDショップの店頭に並ぶようになる。「オレンジジュース」を筆頭に、フリッパーズの“元ネタ”も次々再発されていったのである。
たくさんのCD化音源からどれをチョイスして試聴機に並べるかで、そのCDショップのカラーが生まれるようになり、都市圏を中心に“カリスマバイヤー”が誕生する(その最も有名なバイヤーが、HMV渋谷店の太田浩氏であり、彼の作った「SHIBUYA RECOMMENDATION」というコーナーで紹介されたCD群が“渋谷系”の着火点だったとされている)。そんなカリスマバイヤーたちが当時、急速に推し始めたムーヴメントがあった。「レア・グルーヴ」である。

「オリジナル・ラブ」と「U.F.O」の“グルーヴ”は、世界レベルだった

「レア・グルーヴ」とは、見つけにくい(レア)な音(グルーヴ)を発掘し現代的解釈で新しく聴かせる行為で、元々はイギリスのDJが新しい音源と古い音源を織り交ぜてクラブイベントで流したことがきっかけとされる。その流れからジャズで踊る「アシッド・ジャズ」なるものも生まれている。日本でもレア・グルーヴ音源の再発CD化が進み、CDショップやFMラジオ、音楽フリーペーパー等で紹介されていった。おそらく「レア・グルーヴ」音源を聴くことについては、日本が世界で最も充実していたのではないだろうか。
「レア・グルーヴ」を世に広めたとされる「トーキング・ラウド」。右が看板バンド「ガリアーノ」の1st、左が最初のコンピレーションアルバム
これ以上の詳しい解説は音楽専門ライターさんに任せるとして、当時の私がそのムーヴメントを実感できたのは、日本のバンド「オリジナル・ラブ」(当時はラヴ)と「U.F.O」のおかげである。「オリジナル・ラブ」は田島貴男のソロユニットとして現在も活動継続中だが、当時は7人組の大所帯。また「U.F.O」は本名「ユナイテッド・フューチャー・オーガニゼィション」で当時3人組のユニットだった。
最初に出会ったのがリミックスアルバムの『セッション』。『ミリオン・シークレット・オブ・ジャズ』という曲を、「U.F.O」がリミックスしているのだが、これが邦楽のレベルを超越して圧倒的に“グルーヴィー”だったのだ。「“ジャズ”ってこんなカッコいいんだ!」と単細胞な私の頭は、即座に撃ちぬかれた。
右がオリジナル・ラブ『セッション』。左がU.F.Oのマキシシングル『ムーンダンス』。2017年の今でも全く古臭くない

「アシッド・ジャズ」と小山田圭吾の組み合わせが資生堂のCMに

「オリジナル・ラブ」の田島貴男は、かつて“俺は渋谷系じゃねぇ!”とステージで叫んだと言われているが、「フリッパーズ・ギター」がイギリスのインディミュージックがベースだったのに対し、「オリジナル・ラブ」はジャズやソウル、ファンク、ヒップホップなどの黒っぽい音楽の要素を前面に出していた。「レア・グルーヴ」の解釈としては世界でも最先端だったのではないかと私は思う。結果的に「オリジナル・ラブ」のブレイクが、“渋谷系”のミニマムな市場を大きくメジャーにひっぱっていったことは間違いない(のちに私は、田島貴男がフリッパーズの二人の“元ネタ”で先輩格であったことを知るのだが、この頃は全くわかっていなかった)。
「アシッド・ジャズ=ジャズで踊る」ムーヴメントは、“渋谷系の王子”と呼ばれていた小山田圭吾にも波及し、彼のレーベル、トラットリアから『JAZZ JERSEY』なるコンピレーションアルバムがリリースされる。その中で小山田圭吾は「MO’MUSIC」名義で『イントゥ・サムシング』という曲を発表。この曲は本人が出演した資生堂UNOのCMにも使われ、ベレー帽姿の小山田氏が片手で中古レコードを漁っている姿に、フリッパーズ解散後の動向に一喜一憂していた渋谷系男女は悶絶したのであった。
小山田圭吾とトシ矢嶋のプロデュースによるコンピレーション・アルバム『JAZZ JERSEY』。スタイルカウンシルの残党組である、M・タルボット&S・ホワイトのインスト曲も「アシッド・ジャズ」している
こうして、1992年に古いジャズやソウル、ファンク、ヒップホップをサンプリングして現代的な解釈で蘇らせる“DJ的”手法が一般化していく中、もうひとりのフリッパーズ・小沢健二も、ソロとしての活動を開始する。それもフリッパーズ時代を否定するようなアプローチで――。
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取材・文/藤井大輔(リクルート『R25』元編集長) 1973年富山市生まれ。95年にリクルートに入社し、31歳のときにフリーマガジン『R25』を創刊。現在はフリーランスの編集者でありつつ、地元富山では高齢者福祉に携わっている。



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