帰ってきた小沢健二と小山田圭吾
なぜ2017年なのだろう。2月22日に「小沢健二」が19年ぶりのシングル『流動体について』を、4月26日に「CORNELIUS」こと「小山田圭吾」が10年ぶりのシングル『あなたがいるなら』を発売。しかもフジロックフェスティバルの2日目(7月29日)の出演者に、「小沢健二」と「CORNELIUS」の名前が載ったのだ。「すわ! ついに、フリッパーズ・ギター再結成か⁉︎」と狂喜した人も多かったが、小沢健二は公式サイトで「そういう暇は全くありません」とあっさり否定。とはいえ、この二人が動き出したというのは、90年代初頭に彼らに少なからず“人生を変えられた者たち”にとっては、ひどく感慨深いのだ。
ここまでの文章を読んで、さっぱり共感できないどころか、登場人物もよくわからないという読者の方。申し訳ないが、これ以降の文章はさらにわけがわからなくなるだろう。「その昔、フリッパーズ・ギターっていうバンドがいてね。彼らがいなかったら、僕の人生は間違いなくつまらないものになっていたと思う」。そんな恥ずかしいポエムのような、40を過ぎたオッサンの女々しい青春の回顧録を通して“『渋谷系』とは何だったのか”を考えていきたいと思う。
『渋谷系』らしきものとの出会いは、レンタルレコード屋の廃棄セールだった
少しだけ私の自己紹介をしたい。富山で生まれ、大学時代を大阪で過ごし、95年に就職で上京した。『渋谷系』の全盛期が91年~94年頃だとすると、その時期に私は渋谷にはいなかったことになる。しかし、間違いなく自分の中には『渋谷系』の血が流れており、その血の影響がなければ編集者という職業を選んでなかっただろう。
私が『渋谷系』らしきものと出会ったのは、1989年。高校2年生のときだ。ちょうどアナログレコードからCDに音楽メディアが移行する時期で、いきつけの富山のレンタルレコード屋が、それまでのレコードを廃棄処分しCDに入れ替えするタイミングだった。当時のレコードは日本盤で3000円以上したのでよっぽど好きなアーティストでなければ買えなかったが、廃棄処分セールでは10円で大放出されていた(ただし、盤は傷ついて、ジャケットもシールだらけの代物だった)。生まれて初めて洋楽のジャケ買い。アーティスト名は知らなくても、気になったものは片っ端から購入したのだった。その中に「エブリシング・バット・ザ・ガール」や「スミス」や「スタイル・カウンシル」が混じっていた。それまで「ジョージ・マイケル」や「ペット・ショップ・ボーイズ」といったヒットチャート上位のポップスしか聞いてなかった自分としては「なんだか暗くてインパクトの薄い曲だなぁ」と感じた程度だった。
あるとき音楽に早熟な友人(たいていはお兄さんやお姉さんがいる)が遊びに来て、「エブリシング・バット・ザ・ガールとか聞くんだ。じゃあ、これも聞いてみなよ」と推薦されたのが、「ストーン・ローゼズ」と「フリッパーズ・ギター」の1stアルバムだった。「このフリッパーズってやつは、全曲英語だけど日本人なんだぜ」の一言を添えて。
“男らしさ”の押し付けがない「フリッパーズ」の1st。その音楽的インテリジェンスに脱帽
それまでの自分は、邦楽と洋楽は“別のもの”として聴いていた。当時の邦楽といえば「ブルーハーツ」と「BOOWY」の全盛期。「尾崎豊」も人気があった。私も嫌いではなかったが、それを聴いている人たちの妙にマッチョなカンジが苦手だった。当時の私は背が低く痩身だったので、“男らしさ”を押し付けられるカンジが嫌だったのだと思う。
そんな中、「フリッパーズ・ギター」の1st『海へ行くつもりじゃなかった』は全く違っていた。音楽性はレンタルレコード屋でジャケ買いした洋楽たちの延長線にあったし、全編英語の歌詞がとにかくレベルが高かった。ベレー帽にボーダーのシャツを合わせたファッションも含め「ぜんぜん男くさくない!ちょっとなよなよしてるのも含めてカッコいい!」と衝撃を受けたのだった。この1stアルバムをリリースしたとき、小沢健二は21歳、小山田圭吾は20歳。彼らの音楽的インテリジェンスの高さは、今振り返っても驚異的である。
(ちなみに同時に推薦された「ストーン・ローゼズ」の『石と薔薇』も、なんじゃこりゃ! と驚いた。ポップでグルーヴィーで自然体で、ぜんぜん男くさくない。そんなローゼズも今年22年ぶりの単独来日公演を武道館で行ったのだから、2017年はやはり奇跡の年だと思う)
「フリッパーズ・ギター」との出会いから、私の洋楽への興味は「アメリカのヒットチャートで売れているもの」から「フリッパーズ・ギターがリスペクトしているもの」「イギリスのインディシーンで盛り上がっているもの」へ急速に変化していく。しかし、そんな情報は富山の片田舎では雑誌の中でしか手に入れられない。「ロッキング・オン」や「クロスビート」を読み漁りながら、私は決意する。富山を脱出して、東京に行きたい! 渋谷のレコードショップを小山田圭吾のようにベレー帽をかぶって巡りたいと……。
(vol.2に続く)
取材・文/藤井大輔(リクルート『R25』元編集長)
1973年富山市生まれ。95年にリクルートに入社し、31歳のときにフリーマガジン『R25』を創刊。現在はフリーランスの編集者でありつつ、地元富山では高齢者福祉に携わっている。
次回を読む