「仲間はどんどん増えていった」元プロ野球選手・矢貫俊之が夢を掴むまで【前編】
「こんにちは! 読売巨人軍広報の矢貫です」。
厚い雲に覆われた取材日当日。株式会社読売巨人軍で広報を務める矢貫俊之さん(36)は、灰色の空を吹き飛ばすような爽やかな笑顔で登場してくれた。
矢貫さんは大学卒業後、社会人リーグで投手を務めたのち、北海道日本ハムファイターズと読売巨人軍に所属。プロ野球選手として活躍したのち、グラウンドを離れ球団職員になったというキャリアを持つ。
一見華々しく思えるキャリアだが、これまでを振り返ると決して楽なことばかりではなかったという矢貫さん。一体どんな人生を歩み、今に至ったのか。その半生に迫った。
甲子園の名門校に入学するも、出鼻を挫かれた高校時代
「野球と歩んだ半生の中で、ターニングポイントとなったのはいつですか?」との質問に矢貫さんは「ひとつは高校時代ですかね。入学して早々、出鼻を挫かれたんです」と答える。
1983年、福島県西白河郡西郷村で生まれた矢貫さん。幼少期から野球と触れ合い、小学校でも中学校でも野球部に所属。卒業後は地元を離れ、高校野球ファンなら誰もが知る名門高・仙台育英高校に入学した。
「小さい頃から、漠然とプロ野球選手になりたいと思っていました。多くの野球少年が夢見るように、甲子園に出て、エースとして活躍して、プロになって……。そんな夢を胸に仙台育英に入学しました。でもね、僕はプロ野球選手としては珍しく、甲子園に出場してないんですよ。3年間、公式戦に登板する機会がなかった。それどころか、ベンチに入ることもできず、ずっとスタンドで仲間たちに声援を送ることしかできなかったんですよ」。
選手時代のインタビューでは「自分は12番手くらいの投手だった」と振り返る高校時代。野球を続けていくことの難しさに直面し道を降りる仲間もいるなか、矢貫さんは高校卒業後の進路に常磐大学を選んだ。
有終の美を飾ろうと大学に進むも、切れなかった野球との縁
常磐大学の硬式野球部は、埼玉県以北の北関東と甲信越地方に所属する大学で構成された関東新学生野球連盟に所属する。当時の常磐大学について、矢貫さんは「メジャーなリーグでもなければ、強豪校というわけでもなかった」と話す。では、なぜ常磐大学への進学を決めたのだろうか。
「野球をどうしても諦めきれなかったんですよ。諦めきれなかったというのは、プロになるのをというわけではありません。むしろプロになる難しさは高校時代に痛いほど理解していました。ただ、どうせ野球人生を終えるなら、投げて終わりたいという思いが諦めきれなかったんです。それで、試合で投げられる大学に行きたいという希望を高校時代の監督に話したところ、おすすめされたのが常磐大学でした」。
有終の美を飾って野球人生を終えたい。そう思った矢貫さんだが、大学に入ると再びある想いが蘇ってきた。
「いざ入学してみると、当時の常磐大学の主戦力には、阪神タイガースで活躍した久保田智之投手と西武ライオンズやヤクルトスワローズで活躍した小野寺力投手がいました。つまり、めちゃくちゃ投手力のあるチームだったんですよ。このふたりのピッチャーに出会ったことで、『プロになりたい』という想いが再燃してしまいました。自分が思っていたように活躍できなかったということもあって、もう少し野球を続けたいと思ってしまったんですよ」。
そして、矢貫さんは大学卒業後の2006年、三菱ふそう川崎に入社。社会人リーグのなかでも強豪と知られる同社の野球部に所属することを決めた。
順風満帆な社会人生活が絶たれ、野球で生きていく覚悟を決めた
当時、活躍することはおろか、入部することすら難しかったという三菱ふそう川崎の硬式野球部。そこに矢貫さんが入部できたのは、些細な出来事がきっかけだったと微笑む。
「常磐大学の監督と三菱ふそう川崎の監督が先輩後輩だったということもあって、三菱ふそう川崎の監督が常磐大学に練習を教えにきたことがあったんですよ。そのときに『よかったらうちの野球部に来ないか』と声をかけてもらったんです。でもあとから三菱ふそう川崎の監督から聞いた話なんですけど、野球の技術で誘われたわけではなく『お前の爽やかな性格に惚れたから誘ったんだ』と(笑)。挨拶したときの印象が頭の中に残っていたそうで、本当に縁っていうのは何がきっかけで繋がっていくかわかりませんよね」。
この三菱ふそう川崎への入社で矢貫さんは、野球に対するマインドを大きく変えられることとなった。
「それまではただ単にエースになって活躍したい、速い球を投げたいと思っていたんです。でも三菱ふそう川崎の硬式野球部に入って、チームに貢献したい、チームに勝利をもたらすような選手になりたいと思うようになりました。そのためには、自分がどうやってチームに合わせていくべきかということを日々模索していましたね」。
最高の環境のなかで、改めて野球の奥深さを知った三菱ふそう川崎での投手時代。順風満帆かのように思われた矢先、思いもよらぬ試練が立ちはだかった。
「入社2年目のときに、『来年で野球部が休部になる。これからどうしたいか考えてくれ』と告げられました」。
突然の休部宣告に、矢貫さんは思い切った決断をする。
「自分の状態を冷静に分析したうえで、次のステップとして『プロ野球選手になりたい』と言いました。プロ野球選手になりたいと明言したのは、このときが初めてでしたね。口に出したことで、野球でやっていくんだという覚悟をやっと決めることができたんです」。
その結果、先発・中継ぎ要員として、2008年夏には同チームの都市対抗野球出場に大きく貢献した矢貫さん。2008年のプロ野球ドラフト会議では、北海道日本ハムファイターズから3巡目で指名を受けて入団。幼い頃から描いていたプロ野球選手になるという夢を実現させたのだ。
「仲間がいなくなった感覚はない」プロ野球選手になれたのは縁のおかげ
プロになるまでに何度もターニングポイントがあった矢貫さん。そんな彼を支えてきたものとは何だったのだろう?
「やっぱり何も言わず後押ししてくれた両親の存在は大きいですね。あとは、歳を重ねるごとに仲間が増えていったんです。高校、大学、社会人、プロに至るまで、それぞれのターニングポイントで偶然にも縁が繋がって、支えてくれた人たちがいました。だからこそ、今の自分がいると思っています」。
大人になるにつれ、同じ夢を志す人は減っていった。しかし、「別の道を選ぶ人がいても、別れるという感覚は全然なかった」という。矢貫さん自身が縁を大事にして感謝していたからこそ、自然と支えてくれる人も多かったのだろう。
苦しい状況のなかでも、欠けがえのない縁に感謝し、野球を続けてきた。この姿勢こそが、プロ野球選手を経て、読売巨人軍で広報として活躍することになった理由にも繋がっていく。2016年、戦力外通告を受けたのちに球団職員への転身を遂げてからの奮闘記は後編で。
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「37.5歳の人生スナップ」
もうすぐ人生の折り返し地点、自分なりに踠いて生き抜いてきた。しかし、このままでいいのかと立ち止まりたくなることもある。この連載は、ユニークなライフスタイルを選んだ、男たちを描くルポルタージュ。鬱屈した思いを抱えているなら、彼らの生活・考えを覗いてみてほしい。生き方のヒントが見つかるはずだ。 上に戻る
於ありさ=文 小島マサヒロ=写真