>連載「37.5歳の人生スナップ」を読む大学駅伝屈指の強豪、東洋大学陸上競技部長距離部門の監督である酒井俊幸さん(43歳)は、32歳という若さで監督に就任以降、自身の母校でもある東洋大を何度も箱根駅伝優勝に導いてきた。
自身は学生時代、キャプテンを務めながらも箱根の走者から外されたという苦い経験を持つ酒井さん。しかし、その経験が監督としての今の自分を形作っているという。
「駅伝のメンバーに入れなかった選手に対する説明は最も気を使うし、正直、監督として気が重くなるときです。ただ私自身がメンバーから外れた経験があるからこそ、あと一歩のところで外れてしまった選手の気持ちもわかってあげられるのではないかと思っています」。
メンバーになれなかった悔しさ、思うように結果を出せなかった自分への苛立ち、選ばれたチームメイトへの複雑な感情。それは大学4年次の最後の駅伝でメンバー交代を告げられた酒井さんだからこそ、誰よりもわかる痛みなのだろう。
「私自身、当時は学生最後の1年間何をやっていたのだろうと、情けなさと悔しさでいっぱいでした。でも、箱根駅伝はごまかしがききません。本調子じゃないときに起用しても良い結果は出ないし、選手としても批判を浴びて、その後の選手生命にも関わってくる。そこまで監督は考えたうえで私を起用しなかった。今ならそれがよくわかります」。
箱根駅伝はごまかせない。だからこそ、自身もメンバーを選出する際は、「愛情はかけても情けはかけない」をモットーに、コンディションを冷静に観察し、選んでいるという。
実業団での意識改革
箱根駅伝での苦い思いを噛み締めながら、大学卒業後はコニカ(現・コニカミノルタ)に就職。実業団選手として、陸上競技メインの生活は変わらないが、陸上競技が“業務”となった。社会人になってから日々は、食事から練習量まで、学生時代との変化を大きく感じたという。
「練習量が増えたので、自然と必要なカロリー数も上がりました。そこで、食事の栄養と摂取量を学生時代と変えてみると、体に変化がありました。そのとき思ったのは、出されたものを何も考えずに食べているだけではダメなのだということ。『己を知ることが、己に克つこと』。より強くなるために栄養学について学び、筋肉、血液、自分の体のことを、まず自分自身がいちばんに理解しようと思いました」
食生活によって長距離の練習に負けない体をつくった酒井さんは全日本実業団駅伝3連覇に貢献。アンカーとしてチームを支えた。実業団を6年経験したあとは故郷である福島に戻り、母校の高校で教員生活を送る。教員時代も陸上部顧問として高校生と一緒に走りながら指導に携わりつつ、国体ハーフマラソンにも出場。東洋大学の箱根駅伝初優勝の立役者である選手で『山の神』と呼ばれた柏原竜二さんを発掘したのも、この頃だ。
「私は教員時代、高校生と一緒にレースに出場しても、高校生に先着されたことはありませんでした。部活動では走る模範を自ら示していたので、生徒の前では常に速い先生でいる必要があったからです。しかし、初めてレースで先着されたのが柏原でした」。
そんな柏原さんが、のちに酒井監督のもとで東洋大学を優勝に導くのだから、縁というのは不思議なものである。
「優勝」という高い壁
実業団時代の選手成績、そして教員としての指導経験を評価され、母校である東洋大学の駅伝監督に就任したのは今から10年前。東洋大学が箱根駅伝で初優勝を果たした直後の2009年だった。
「当初は、すぐに断りました。私には福島の高校で受け持っているクラスと部活動の生徒がいたし、彼らに対する責任がありましたから。ただ、そのあともしばらく監督への打診は続きました。そこから次第に、『安心して引継ぎができる後任の指導者が見つかれば前に進もう』と心境が変わっていきました。それは、一緒に教員として働いていた妻の後押しが大きかったですね。妻も陸上選手で指導者でもあったので、理解がありました」。
就任早々、V2がかかった、大事な1年。大きな期待を背負いながら、最年少で大学駅伝の監督になったとき、どんな思いがあったのだろうか。
「当時は監督を引き受けた以上、絶対に結果を残さねばと思っていました。地元を離れてついてきてくれた家族への責任や福島に残してきた生徒たちへの使命感があったからです。ですから優勝したときは、喜びというより安堵のほうが強かったですね」。
酒井さんは見事V2を達成し、東洋大学は大学駅伝の強豪校として名を連ねるようになった。
「でも本当に大変なのはそこからでした。優勝チームを率いるということは、目標は常に優勝。それ以外はありえません。一度トップにたってしまえば、その次からは2位でもおめでとう、とはならない。残念だったねと言われてしまう。学生は4年間で卒業しますので、常に優勝を目指すチーム作りを行うことは容易ではありません。箱根駅伝に向けた強化を多くの大学が総力をあげて行っています」。
目指すは優勝。それは、どの大学も同じだ。選手の気持ちをどれだけ引っ張っていけるかは監督の手腕にかかっている。
しかし、そんな大きな試練にも、もう酒井さんは怯んでいない。監督を担って10年間、選手と一緒に自身も変化を遂げているからだ。
「陸上選手も指導者も、ただ走り続ければいい、ではない。苦しいときには立ち止まって、己を知り、刷新の準備をする。フィジカルもメンタルも、成長のためには自分を知るところから始まります。最初はただがむしゃらになっているだけでも良かったけど、40代になって新たなやり方を模索していかなければならないと思うようになりました」。
過去のやり方は、いつまでも通用しない。40代の手前になると、変化を恐れずそれまでの考え方を刷新し、自分自身をもう一度作りなおしていかなければと思う時期が、きっと誰にでも訪れるのだ。
「今の時代は学生も多様化しています。私たちのようにスマホもなかった頃とは違う。伝え方も工夫しなければならないし、難しいなと感じるときもあります。でも多様な学生たちが、勝利に向かって主体的に取り組めるチームを、どうやって私が導いていき手助けをしていくか。今はそれがミッションであり、楽しみでもありますね」。
東洋大学が最後に箱根で総合優勝を決めたのは、酒井さんが37歳のとき。以来、惜しくも優勝を逃し続けている。しかし「今年こそ優勝を!」というような周囲の期待を背負いながらも、最後の箱根駅伝に出られなかった悔しさや、監督として勝利の喜びを味わい尽くした経験から滲み出る“余裕”が感じられた。
2020年の1月2日と3日、酒井さんがどのように選手たちを鼓舞するのか。今から楽しみでならない。
藤野ゆり=取材・文 小島マサヒロ=写真