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2018.12.24

ライフ

挫折と地獄の中でも世界を変えようとした。元ハンドボール日本代表の戦い方【後編】

前編の続き。
元ハンドボール日本代表の東 俊介(43歳)。
元ハンドボール日本代表の東 俊介(あずま しゅんすけ 43歳)。

中東の笛によって、2度目の挫折

2006年、東はドイツへの切符を掴むために、タイ・バンコクで開催された世界選手権アジア予選に、日本代表のキャプテンとして出場する。だが、東の競技人生をかけた戦いは、思いがけぬ壁に阻まれることになった。
「中東の笛」である。
「中東の笛」という言葉は、すでにサッカーファンの間でも使われるほど、日本ではお馴染みの言葉だ。日本で最初にこの言葉が広く知れ渡ったのは、2007年の北京オリンピック予選でのことだったが、その前年の2006年、この中東の笛によって、東のアスリートとしての人生は、どん底に叩き落とされた。
決まったと思われたゴールは不可解な判定でファールとされ、中東諸国に有利と思われる判定を重ねられた結果、日本代表は予選敗退を余儀なくされた。
いくらアスリートが厳しい練習を重ね、ベストコンディションを作って大会に挑んでも、試合を司る審判がアンフェアでは、結果は自ずと決まってしまう。

「このとき、僕は本当の意味での挫折を経験したんです。人生をかけて世界選手権に挑もうとしているのに、レフェリーからはありえないジャッジをされてしまう。戦っても絶対に勝てないのなら、ハンドボールをどれだけ頑張っても意味ないじゃん、って思ってしまった。心が壊れてしまったんです」。

東をどん底から救い上げた天使

ドイツで戦うという夢が絶たれた東は、毎晩、泥酔するまで酒を飲むようになってしまう。練習にも身が入らず、妻にも「死にたい」と口走ってしまう毎日。さらには背中に大量の湿疹ができ、血だらけになるまで掻きむしっていた。
そんなあるとき、東にとって再び転機が訪れた。妻の胎内に新しい命が宿ったのだ。毎日のようにやけ酒を繰り返す東を見かねた妻に、とっさにエコー写真を見せられ「父親になるんだから、しっかりしなさい」と叱りつけられた。
東は、写真に映る新しい生命を目の当たりにし、ようやく目が覚めた。

「父親としてしっかりしないといけないなって思いました。本当に助けられました」。
こうして酒を絶った東だが、その後、一度壊してしまった肉体は、本来のコンディションに戻ってはくれなかった。代表からは遠ざかり、2006年の世界選手権アジア予選以降、日の丸を背負うことはなかった。

試合の外から、中東の笛に対抗

そんななかで迎えた2007年。愛知県豊田市で開催された北京五輪アジア予選で、東の脳裏には、前大会予選の記憶がよみがえっていた。
「また中東の笛にやられるかもしれない」。
そんな強い危機感を感じていたが、このとき、すでに代表に呼ばれることはなくなっており、選手としてはどうすることもできない立場に置かれていた。同時に、仮に選手としてピッチに立っていたとしても、レフェリーに抗議をしようものなら2分間の退場になってしまうのだから、それでは意味がないこともわかっていた。
ならばハンドボール協会が動いたらどうか、と思うが、そうなると国際問題に発展してしまうためそう簡単には事が進むはずもない。八方塞がりのような状況で思考をめぐらせて考え抜いた結果、東が導き出した答えは、意外なものだった。
「応援団を作って、レフェリーにアンフェアな判定をさせない」。
選手や監督が直接言っても不利な判定が下されるなら、会場に“観客の声”を作り出し、外部から中東の笛を食い止めようというものだった。
「誰にでも考えつくような発想だ」と思う人もいるかもしれない。
だが、ハンドボールは企業スポーツのため、身内のサポーターはいても、日本代表の応援団は存在しなかった。発想よりも、行動が重要だった。だから、東はすぐに、一から応援団を作るために動き出す。所属する大崎電気を中心に、各チームのサポーターに協力を呼びかけ、予選を戦う選手を中東の笛から守るべく、大会まで全力で駆け回った。

そして予選の試合当日。東は応援団長として団員を先導し、日本代表に向けて大声でエールを送り続ける。そしてレフェリーがアンフェアな判定をすれば、一斉に声を上げた。中東の笛に後押しされるクウェートと韓国の試合では、クウェートに対してマイクパフォーマンスも行なったという。
この行動に対して、ハンドボール協会から批判を受けたが、東の行動は、他の国をも動かしていた。中東の笛によってクウェートに敗れた韓国を中心に、ヨーロッパへ試合のビデオを送って問題を指摘。すると、国際オリンピック委員会(IOC)が動き出し、異例の“予選やり直し”が決定したのだ。後にこの出来事は“ハンドボールフィーバー”と呼ばれ、意外な形でハンドボールという競技が注目される出来事となった。
その後は中東の笛もなくなり、ようやく異常事態から脱したハンドボール界。東を含め、日本のハンドボール関係者の執念が実った瞬間だった。

ビジネスで、ハンドボール界に恩返しを

2008年、地元の金沢で行われた日本選手権を最後に、11年に渡る実業団選手生活にピリオドを打った東は、引退後、早稲田大学大学院に入学した。
東京オリンピック・パラリンピック推進本部の事務局長を務める平田竹男教授のもと、元読売ジャイアンツの桑田真澄氏などと机を並べ、スポーツマネジメントについて学んだ。
大崎電気からはコーチングスタッフ就任を打診されていたというが、なぜ大学院に入ってまでビジネスを勉強する道を選んだのだろうか。
「ハンドボールという競技を存続させていくためには、チームを強くするよりも、ビジネスとして成り立たせる必要があると考えたからです」。
国内のハンドボールは企業スポーツ、チームが何度も日本一を達成するぐらい強くても、会社の景気が悪化すれば、経費負担を削減するために休廃部に追い込まれてしまう。
「だからこそ、スポーツをビジネスにできる能力のある人が上に立たないといけません。でも、あまりメジャーではないハンドボールに目を向けてくれる人はなかなかいない。だったら、僕がやればいいじゃんって。そう思ったんです」。
それは、なんとも東らしい理由だった。中東の笛を防ぐために応援団を作ったときもそう。彼は自ら率先して課題に向き合い、解決策を見出してきた。その根底にあったのは、“やる人が誰もいなければ自分がやる”という信念だ。
現在、複数の企業で役員を務め、スポーツ界の内外でさまざまな活動に取り組んでいる東だが、最終的なゴールは、あくまで「ハンドボールのメジャー化」だ。そのために、今は多くのビジネスに携わり、ビジネスマンとしての自分の価値を高めている。

「“東がやるならハンドボールを応援しよう”と思ってくれる人をどれだけ増やせるか。それが大事だと思っているので、今は力をつけて、たくさんの仲間を作っていきたいと考えています。ハンドボールがなければ、今の僕はない。だから一生かかっても、ハンドボール界には恩返ししていこうと思っています」。
東は、これまで、「ハンドボール界のために」というひとつの信念の元、常に自らの置かれた立場の中で、自分にできることを行なってきた。何を行うかという発想はもちろん大切だ。だが、東を見ていると、最も重要なのは、発想ではなく、行動を起こすことだと、改めて気づかされる。
僕たちも、東のように、今いる環境の中で、できる行動を起こしてみてはどうだろうか。その行動は、目に見えないほどの変化しか起こせないかもしれない。だが、その小さな行動の積み重ねこそが、日本を、いや世界を変える可能性をも秘めているのだから。
 
佐藤主祥=インタビュー、写真 瀬川泰祐=文


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