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2018.12.23

ライフ

挫折と地獄の中でも世界を変えようとした。元ハンドボール日本代表の戦い方【前編】

「自分が当落線上にいるのは分かっていました。でも結果は残せていたので、ギリギリ生き残ったかなと思っていました」。

こう語るのは、元ハンドボール日本代表の東 俊介(あずま しゅんすけ 43歳)だ。
東は、若かりし頃、自分の人生をかけて挑んだ場面で、目標を掴みかけながらも、目の前で手のひらからこぼれ落ちていく経験を2度も味わってきた男だ。

 

用意されていた地獄

2005年1月、東は、フランス・パリで行われたハンドボール世界大会の最終選考合宿に参加していた。合宿に参加した候補選手は18名。うち16名が日本代表のメンバーとして、チュニジアで行われる世界選手権のメンバーに正式に登録されることになっていた。
メンバーの発表は、チュニジアに移動する当日の朝。そこで落選すれば、チュニジアに向かうことは許されず、荷物をまとめて日本に戻らなければならない。ここに集まった18名のうち、2名だけは、必ず地獄を味わうことが決まっているシビアな合宿だ。選手たちにとって、これほどまでに明暗がくっきりと別れる場面は、長い競技生活の中でも、それほど多くはないだろう。
東は、高校生のときに、初めて年代別の日本代表に選出されて以来、全日本の代表として世界の強豪国と戦うことを夢見続けてきた。
東は、たった16枚しか用意されていないチュニジア行きの切符を掴むために、必死にアピールを続けてきた。発表前日に組まれた練習試合で、チーム最高の得点数をあげ、十分にアピールできたという手応えを持って、発表当日の朝を迎える。
「ホテルのロビーに来てくれ」。
メンバー発表当日の朝、監督から電話で呼び出された。期待と不安を胸に監督の待つロビーへ向かう。そして、視界に入った監督の顔を見た瞬間、東は、この場に呼ばれた理由をすぐに悟った。
 

挫折を力に


「あぁ…… 落ちたんだな」。
監督から説明を受け、いくつかの言葉をかけられたが、東の耳には一切届かなかった。監督の顔をみることすらできず、ただただ自分に降りかかった運命に呆然とするしかなかった。大きなショックを受けた東は、涙がこぼれ落ちるのを必死に抑えながら、ホテルの部屋に戻る。
すると、部屋には、同室だった1歳年上の羽賀太一が、東が戻ってくるのを待っていた。羽賀に落選したことを報告すると、彼は、自分のことのようにボロボロと涙をこぼし、声をあげて泣いた。東は、そのときのことを決して忘れない。
「羽賀さんとは代表合宿でいつも一緒だったんですけど、性格が前向きで、1度も泣いたところを見たことはありませんでした。そんな先輩が声を出しながら泣いているんです。自分は選ばれているのにですよ。一緒にいると楽しくて、選手としても人としても大好きな先輩が、僕なんかのために……。そのとき、もう泣くのはやめようと決意しました。僕の涙は、先輩がすべて流してくれましたから」。
東は、羽賀の姿を見て、落選した自分にもまだできることがあることに気づき、行動に移す。監督から「出なくていい」と言われた選手発表のミーティングに出席し、チュニジアに出発する選手たちにエールを送ったのだ。
「先輩の涙を見て、これが僕にできる最後の仕事だと思ったんです。選手たちには、僕らのことは気にせずに、切り替えて世界と戦ってきてほしかった」。
1人の男の涙によって、今にも壊れてしまいそうな東の心は救われた。目の前の結果を受け入れた東は、大きな挫折を力に変え、再びハンドボールと向き合う日々を歩み始めた。
 

行動を評価され、日本代表の主将に

選手たちを見送った東は、パリから日本に帰国し、休むことなく練習を再開した。所属する実業団チーム・大崎電気ハンドボール部の監督からは「気持ちを切り替えるために休んでいい」と言われたが、東の心はすでに前を向いていた。

「僕は足りない部分があったから落選したんです。選ばれなかった僕が休んでしまったら、世界で経験を積んでいる他の選手たちにどんどん差を広げられてしまう。そうなれば絶対に次も落ちると思ったので、1日も休まずトレーニングを開始しました」。
そんな姿勢は、実戦でも徐々に結果としてあらわれ始めた。その年の日本ハンドボールリーグで大崎電気は初優勝を達成。翌年には東自身も、得点ランキング10位以内で最もシュート率が高い選手に贈られる「シュート率賞」を受賞するなど、心身ともに充実した時期を迎えていく。
すると、チュニジア世界選手権で、東を外すという決断をした監督から、今度は、主将として日本代表のメンバーに召集されることになったのだ。それは、言うまでもなく、落選したときの行動や、帰国後の競技に対する姿勢を評価されてのことだった。
次に行われる2007年の世界選手権は、ハンドボールの本場、ドイツで開催されることが決まっていた。東のモチベーションは本大会が近くにつれ、日に日に高ぶっていった。
後編へ続く。
佐藤主祥=取材、写真 瀬川泰祐=文


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