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2018.11.30

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挫折は、新たな夢の始まり。サッカー解説者・戸田和幸の挑戦し続ける人生【後編】

前編の続き。

戸田を襲った“思わぬ敵”

日本代表としてワールドカップを戦ったことで、戸田和幸のもとには、海外クラブからオファーが届いた。イングランド・プレミアリーグの強豪トッテナムからだった。すぐさま移籍を決断した戸田は、2002-2003シーズン途中に海を渡り、サッカー選手としてのキャリアの階段を一気に駆け上る。
だが、当時は、日本人が海外に挑戦して成功する事例は、今ほど多くない時代だ。戸田の目の前には、“世界の壁”が大きく立ちはだかった。
「もう強烈でしたね。どの選手も体が強くて、大きくて、めちゃくちゃ足が速かった。それにサッカースタイルも、ガチガチにぶつかり合う激しいもので、Jリーグとは全く別物でした」。

Jリーグとは全く別もののサッカーに対応するには、ある程度、時間が必要だった。試合に出場したい気持ちを抑え、移籍してからのハーフシーズンは、異国の地に慣れる作業に徹した。しばらくして環境にも徐々に慣れてきたタイミングで、いよいよ戸田の出番が訪れる。シーズン終盤の4試合に出場することができたのだ。
なかでも、大きかったのは、ビッグクラブのマンチェスター・ユナイテッドとの対戦が実現したこと。戸田はその試合で、先発デビューを飾った。
当時のマンチェスター・ユナイテッドには、クラブのアイドルであるデイビッド・ベッカムを筆頭に、エースのファン・ニステルローイ、ロイ・キーン、ライアン・ギグス、リオ・ファーディナンドなど、スター選手がずらりと顔を揃えていた。
戸田がこれまで対戦してきたどのチームよりも圧倒的に強く、戸田の人生の中では、ワールドカップ以上に大きな試合という位置づけだったという。それゆえ、意気込みは異常なまでに強く、それまで経験したことのない大きな緊張感に、戸田の心と体は締め付けられた。
試合前半の途中で一気に心拍数が上がる。心臓の鼓動が早く、激しくなり、無酸素状態に陥ってしまったのだ。実は、戸田は突発的に起こる不整脈を抱えており、よりによって、この大切な試合で、それが起きてしまった。
なんとか試合の前半を乗り越えたが、そんな状態で1試合を通じて世界レベルの選手を抑えられるほど甘い世界ではない。戸田は、この試合でマークしてきたFWスコールズに一瞬の隙を突かれてマークを外され失点を喫してしまう。途中交代を余儀なくされるとともに、チームも敗北した。試合後は悔しさのあまり、朝まで眠ることができなかったという。
 

挫折と苦悩の果てに

シーズン終盤に感じた手応え、そしてマンチェスター・ユナイテッド戦での悔しさを胸に、再び気持ちを切り替えて、翌年のシーズンに挑んだ戸田は、プレシーズンでレギュラーを獲得する。確かな手応えを掴んでいた戸田は、開幕スタメンの座をはっきりと視界に捉えていた。
だが、ここでも再び、戸田に大きな試練が訪れる。開幕まで2週間と迫った練習中のある日のことだ。
「目の前に、シャッターが“ガシャン!”と落ちてきた」。
戸田の体が悲鳴をあげた瞬間だった。ふくらはぎに肉離れを起こしてしまったのだ。
もちろん、本当にシャッターが落ちてきたわけではない。だが、そんな感覚に陥るほど、あまりにも突然に、戸田の視界が真っ暗になったという。
開幕直前で怪我を負った戸田の前に、今度は「言葉の壁」が立ちはだかる。英語が全く喋れなかったわけではないが、肉離れ自体が初めての経験だったこともあり、自分の症状や感覚をトレーナーにうまく伝えることができないのだ。
そのため、症状に対して必要以上に負荷をかけてしまい、結果的に、怪我が完治したときには、すでに2カ月以上が経ってしまった。その間、チーム状態が上向かず、戸田を獲得したグレン・ホドル監督は解任されてしまう。
サッカーの世界では、監督が変わると、チームの戦い方も変わり、選手のチョイスも大きく変わることが多い。新しい指揮官の構想の中に、戸田は、入っていなかった。怪我が治っても紅白戦すら起用されず、出場機会どころか、自らの居場所すら失った。試合中はグラウンドの端っこに追いやられ、若手選手たちとトレーニングを行う立場に転落した。
このときが、戸田にとっての“人生最大の挫折”だ。
すぐそこまで掴みかけていた開幕戦のレギュラーの座が自分の手からすり抜け、そこから、一気にどん底まで突き落とされた。戸田のトッテナムでのキャリアは、そのまま終焉を迎えた。

当時の心境を、戸田はこう話す。
「手応えを感じてました。“俺、このままいけるぞ”ってね。かなり気合が入っていたので、もっと練習しようという気持ちが出てしまったんだと思います。そのときの自分の体としっかり会話できていたらよかったんですけど、休まずに無理ばかりしてしまった。今考えれば、体が悲鳴をあげて当然だったと思います」。
その後、オランダでシーズンを過ごした後に、Jリーグに復帰、清水エスパルス、東京ヴェルディやサンフレッチェ広島、韓国の慶南FC、シンガポールのウォリアーズFCなど国内外の複数のクラブを渡り歩き、2013年のシーズン終了後に、現役を引退した。35歳だった。戸田は、そこまで現役にこだわった理由を、こう語る。
「現役のうちにピッチの上で拾えるものは何でも拾っておこうと思いました。引退後は、指導者になると決めていましたからね。もちろん、“このままでは終われない”っていう意地もありましたけどね」。
 

挫折は新たな挑戦への第一歩

引退後の戸田は、論理的かつ独自の視点でサッカーを語る解説者として人気を博し、国内外のサッカー中継で今や引っ張りだこの状態だ。
解説業と並行して、2016年12月には日本サッカー協会のS級ライセンスを取得。翌年には海外研修と視察を兼ねてイングランド、オランダ、イタリアといったヨーロッパのサッカー強豪国を飛び回った。さらに今年の2月には慶應義塾大学サッカー部のコーチに就任して話題を呼んだ。まずは、J1の監督になることを目先の目標として掲げ、指導者としての経験と実績を積んでいる最中である。
指導者としての道を歩みはじめたばかりの戸田は、自分自身の未来図を、どのように描こうとしているのだろうか。
「僕の中では、イングランドで味わったあの挫折感を、当時の気持ちを、今でも持ち直せていません。だって、あの時はもう2度と戻ってきませんから。ですが、プレイヤーとしては挑戦できなくても、監督・コーチとして、再びあのピッチに立つことは可能なんです。だから僕は、またヨーロッパで勝負がしたいんですよ。今度は指導者としてね。最終的には、ワールドカップの舞台で、世界中の人が“おっ!”って思うような、新しいサッカーを見せたいですね」。

人生を歩んでいれば、誰だって大きな壁にブチ当たるものだ。その壁を登りきることができずに、大きな挫折を味わうことだってあるだろう。だけど、戸田和幸の人生を見ていると、時間が経てば、前に進んでいれば、過去に阻まれた壁をよじ登るための別ルートが見えてくることだってある、ということがわかる。
失敗や挫折は、決して終わりではない。挫折を転換地点と捉えてみると、また明日への活力が生まれるのではないだろうか。
 
瀬川泰祐=取材・文


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