37.5歳の人生スナップ Vol.30
2018.11.29
LIFE STYLE

挫折は、新たな夢の始まり。サッカー解説者・戸田和幸の挑戦し続ける人生【前編】

「本当にあと一歩でした。15年経った今でも気持ちを持ち直せていないですよ。だからこそ、またヨーロッパで勝負がしたいんです」。

強い眼差しでこう語るのは、イングランド・プレミアリーグのトッテナムなどでプレーした経験のある元サッカー日本代表の戸田和幸だ。

2002年サッカーワールドカップ日韓大会で、赤いモヒカンと激しいプレースタイルで強烈な印象を残した戸田は、引退後、世間のイメージからは一転して、物静かな語り口と冷静で的確な分析力を武器に、人気サッカー解説者として多忙な毎日をおくっている。

そんな戸田が現役時代に味わった、今でも払拭できていない“人生最大の挫折”とは。そして新たな道を歩みながらも、若き日に跳ね返された「ヨーロッパ」という壁に再び挑もうとするのはなぜか。その挑戦に込められた真意に迫る。


プロで生きるために確立したプレースタイル

サッカーをしていた2つ上の兄の影響と、「キャプテン翼」に憧れて、小学3年生からボールを蹴り始めた戸田。中学に入ってからはFC町田ゼルビアのジュニアユースに加入し、全国大会3位になるなど、徐々にその頭角を現す。その後、神奈川の古豪・桐蔭学園高校を経て、Jリーグの清水エスパルスに入団し、夢だったプロサッカー選手としてのキャリアをスタートさせた。

だが、入団1年目で、すぐにプロの壁に阻まれてしまう。入団当時は178cm、65kgとサッカー選手としては細身だったため、身体能力・体格・体の強さで周りに圧倒された。さらにプロの技術やスピードにも対応することはできず、レギュラーを狙うどころか、周りについていくのがやっとという現実を突きつけられた。

立ちはだかるプロの壁を前に、この世界で食べていくにはどうしたら良いかを懸命に考えた。

「周りと同じ練習をするだけでは、この状況は打破できないと思いました。だったら誰もやらないことをして、自分だけができることをしていこうと。それが自分の価値を高めることに繋がりますし、結果としてチームのためになりますから」。

こうして、自問自答を繰り返しながら、ようやくたどり着いた答えは、“誰もやりたがらないことをやる”ということだった。

「自分が好きだからとか、嫌いだからとか、そういう問題ではありません。自分にとって必要なことをしないと、お金を稼ぐこともできないし、すぐにこの世界から弾き出されてしまいます。だから、プロサッカー選手として生活している間は、楽しくサッカーをしていたかというと、そうではなかった。もちろんサッカーが好きっていう気持ちは変わりませんが、どれだけキツくても、どれだけツライ思いをしても、この世界で生きていくために必要ならば実践する。そう心に決めて進み始めました」。

以降、戸田は、1年かけて徹底的に周りと自分を分析し、独自のプレースタイルを作り上げていく。相手選手には常に激しくマークをし、チームがピンチに陥った時には反則をも恐れない力強いスライディングタックルを仕掛ける。そんな荒々しいプレーとともに、試合中の状況判断の正確さをも身につけていった。

その結果、1999年には、不動の3バックの一角として清水エスパルスのステージ初制覇に貢献。プロサッカー選手として、確固たる地位を築き始めた。


“赤いモヒカン”で躍動した夢舞台

こうしてJリーグで徐々に実績を積み上げていった戸田だが、母国開催のワールドカップに向けた日本代表選考レースからは一度、外れてしまったことがある。

それまで、高校生の頃から、常に各世代の代表に選ばれ続け、23歳以下で臨んだシドニーオリンピックのアジア予選にも出場した。それでも、2000年に行われた本大会のメンバーからは、落選してしまったのだ。

これは、同時に、2年後に迫った2002年の日韓ワールドカップへの出場も厳しい状況に追い込まれたことを意味した。オリンピックで世界各国の代表とプレーすることは、国際経験を積む重要な場であると同時に、若い選手がフル代表入りをアピールする絶好の機会でもあるからだ。

悔しさを噛みしめながら、現状を受け止め、前を向いて、Jリーグを戦っていくしかなかった戸田に転機が訪れたのは、そこから1年が経った2001年シーズンのことだった。当時チームを指揮していたゼムノビッチ・ズドラヴコ監督の指示により、ポジションをディフェンダーからボランチにコンバートされたのだ。

怪我人が出たことによる苦肉の策だったため、戸田は、はじめは難色を示したが、チームのためにやむなく受け入れる。だが、ボランチというポジションでプレーしていくうちに、サッカーに対する考え方が大きく変わり、選手として視野が広がるのを感じはじめた。

こうして中盤でプレーしはじめて程なくして、フィリップ・トルシエ監督により、フル代表に召集された。ボランチとしての戸田の適性が評価されてのことだった。

「ちょうどポジションが変わったタイミングで呼ばれたので、自分に求められていることは理解していました。ようやくここまで辿り着くことができたので、死ぬ気でやる覚悟を持ってプレーし続けました」。

ポジション変更が功を奏し、戸田は晴れて日韓ワールドカップメンバーに滑り込んだ。すると、本大会には、奇抜な赤いモヒカンヘアーで臨み、チームに不可欠な存在として全4試合フル出場。日本代表初のベスト16進出に大きく貢献するとともに、見た目とプレーの両面で大きなインパクトを残すことに成功した。

実際に夢の舞台でプレーしたときの想いを、戸田はこう語る。

「プレッシャーはありました。自国開催ですし、グループリーグで敗退するわけにはいきませんでしたからね。でも、怖気付いて全力を出し切れない、ということはなかったです。大会前にできる限りの準備はしてきましたから」。

限られたチャンスをものにし、ワールドカップへの切符を手にし、夢のピッチで躍動した戸田。その活躍ぶりと独特なヘアスタイルで世界から脚光を浴びたことがきっかけとなり、戸田の目の前には、突如として新しい道が開かれた。欧州移籍という道である。

だがその道の先には、大きな挫折と苦悩の日々が待ち受けていた。

後編へ続く。


瀬川泰祐=取材・文

# 37.5歳の人生スナップ# サッカー# ワールドカップ# 戸田和幸
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