「イタリア人マッシのブオーノ・ニッポン!」とは……何かと話題に上がる「お米」。日本の食卓に欠かせない存在だが、マッシさんは当初、ご飯の食感が“アルデンテじゃない”と感じ、得意ではなかったという。
が、今では「塩むすびさえ贅沢に感じる」と唸るように。そのワケは日本米への深い理解があった。
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マッシミリアーノ・スガイ●1983年生まれ、日本食が大好きなイタリア人フードライター。 KADOKAWAよりフードエッセイ『イタリア人マッシがぶっとんだ、日本の神グルメ』を出版。日伊文化の違いの面白さ、日本食の魅力、食の美味しいアレンジなどをイタリア人の目線で発信中。
アルデンテじゃない日本のご飯
日本に来てすぐ、今まで僕の頭にあった食文化の価値観をガラッと変えた食べ物がある。それは、寿司でも懐石料理でもなく、“一杯の白いご飯”。イタリア人の僕にとって、それまで白米はあくまで料理の食材のひとつだった。
イタリアではリゾットやアランチーニ(ライスコロッケ)のようにお米がメインの料理になることはあるけど、白米そのものを味わうことはない。
しかも、イタリア人にとって白米の食感はまさしく“敵”。味がしないし柔らかくて粘り気がある。要するに、アルデンテではない。こう思っていた当時の僕は、本当に馬鹿だった。白米の「本当の魅力」が分からなかったのだ。
これはマッシのママがイタリア現地で作るリゾット。
よく、「イタリア人にとってのパスタは日本人にとっての米と同格」と言われる。でも、あるイタリア人の友達は「イタリア人にとってのお米は、パスタではなくパンだ。もしパンを床に落としてしまったら、捨てる前にキスする。それくらい愛情が込められている食べ物」と言っていた。
それを聞いて僕は「なるほど、でもちょっと違うかも?」という気持ちになってしまった。日本人にとっての白米はもっと神様の存在に近いような気がする。
どうしてイタリアと日本ではこんなにお米に対する考え方が違うんだろう? イタリアに初めてお米が入ってきたとき、主食としてではなく、遠い東の国からやってきたスパイスのようにエキゾチックな食材だったようだ。それが15世紀頃、僕の故郷であるピエモンテの大きなポー川のあたりで、飢えに苦しむ人々を救うための「賢い作物」として本格的に作られるようになった。
この始まり方を知ったとき、「ああ、なるほどな」と感じた。日本の「お米=神様からの贈り物」という考え方とは違って、イタリア人にとってのお米は、暮らしを助けてくれる現実的でありがたい存在としてスタートした。その違いが、お米への考え方の違いに繋がっているのかもしれない。
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