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定年後、一から寿司職人の修業の道へ

そして、62歳で定年。定年後に起業する、いわゆるシニア起業では前職の経験や技術、資格を生かして同業の道を選ぶ人も多く、そのほうがリスクも少ないだろう。しかし、河野さんが選んだ仕事先は寿司店の見習い。好きな寿司を握るための勉強だった。

寿司職人養成学校の「東京すしアカデミー」で学んだ後、インターネットで見習い募集の店を探して、応募した。上下関係が厳しいとされる職人の世界に、未経験の62歳が飛び込んだわけだ。

河野透さん(撮影/大澤誠)

河野透さん(撮影/大澤誠)


「職人の世界で、サラリーマンだった年寄りが下っ端でやっていけるか。そこが僕にとって、第2の人生の1番のポイントだったかもしれません。

現役時代は何十人も部下がいて、経費も使えて寿司屋にもたくさん行った。会社の肩書に守られて、なんか偉そうにしていられたわけですよ。
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そのサラリーマンがずっと年下の親分に教わる。その踏ん切りというか覚悟というか、そういうものを見習い修業で持つことができた。それで、その後の人生がずっと楽になりました」

面接のときに心がけたのは、変に自分を取り繕ったり大きく見せようとしたりしないこと。本当のことを言う。特に何かを気をつけようとか、ボロを出さないようにしようなどは考えない。自然体で臨んだ面接では、自身のことをこう語った。

「僕はもう62歳ですが、見習い募集の広告を見て応募しました。一応、東京すしアカデミーというところで、ひと通りのことは勉強してきたつもりですが、お店によってやり方は全部違うと思います。一生懸命がんばりますので、雇っていただけますでしょうか」

嘘偽りのない気持ちを、年下の大将や店長に伝える。とても新鮮な気持ちだったという。

現場ではやっぱり見習い。わからないことばかりだった。失敗も多い。それでも叱られるときは年長という部分で少し割引してくれたのかなと、思った。

「若い衆には殴るような勢いで、バカ野郎! と怒鳴ったかもしれませんが、僕は『河野さん、それは困りますよ。何度言ったらわかるんですか?』という言葉使いで注意してくれました。江戸前の仕込みを習うときは、『ちょっと酢が甘い』『漬け込みはもうちょっと長く』とか、さじ加減が難しかったですね。正解は教科書の味ではなく、店の味。大将のお手本を見ながら、必死でメモを取っていました」

4年半の修業で培った腕前を披露する河野さん(撮影/大澤誠)

4年半の修業で培った腕前を披露する河野さん(撮影/大澤誠)


それまでの社会経験が必ずどこかで生きる

広告マンとして38年、その経験で何か役に立ったことはあったかと問うと、河野さんは「何もないね」と即答して大笑い。「広告代理店というのは技術じゃなくて、しゃべりだから」と口パクの手振りをする。

「相手に応じて気の利いた話はするけど、それを技術と言えるだろうか」と言う河野さん。それは一理あるだろうし、謙遜でもあろう。寿司割烹時代にカウンターで握らせてもらったとき、ひと回り年下の大将に「河野さんはお客さんの立場や気持ちをよくわかっているよね」と太鼓判を押された。

広告マン時代、河野さんは接待をするときも受けるときも、人と会って楽しい場にしたりお酒を飲んだりすることは好きだったし、接待といえどストレスになることはなかったという。人が喜んでくれることはうれしい

貸し切り寿司は1日1組限定(撮影/大澤誠)

貸し切り寿司は1日1組限定(撮影/大澤誠)


寿司職人としてはゼロからのスタートだが、大将はそういう河野さんの人と関わってきた社会経験をきちんと評価していたのだろう。シニア世代の就業は、それまでの社会経験が必ずどこかで生きるのだ

河野さんは仕事人生を振り返って思うことが2つあるという。

1つは、人との付き合いをいかに大切にできるか。

望むとも望まざるとも、人との付き合いは人生にずっとついて回ることだと思うんです。その積み重ねが人生だなと。だから隣り合った人とどうしたらうまくいくかということを考えざるをえない。家庭においては、どうしたら女房と楽しくやっていけるか。町内では隣り合う家もそうだし、僕は酒飲みだから飲み屋で隣同士になった外国人ともそう。それが世界平和につながっていくと信じています」

自宅の6畳を改装して、貸し切り寿司を開業(撮影/大澤誠)

自宅の6畳を改装して、貸し切り寿司を開業(撮影/大澤誠)


河野さんの握った寿司(撮影/大澤誠)

河野さんの握った寿司(撮影/大澤誠)

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