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1990年、野村さんは20歳で消防士となった。地元の消防活動だけでなく、阪神淡路大震災でも経験を積み、29歳になる頃にはレスキュー隊としての活動もスタートした。
そこで起きたのが、広島県や福岡県で大雨による水害、6.29豪雨災害(1999年)だ。広島では特に呉市の被害が甚大で、土砂崩れも起きた。野村さんはレスキュー隊として、その現場へ駆けつけた。
「現場に着くと、土砂崩れで家屋が倒壊していました。近くの電柱も倒れてバチバチと漏洩し、ガス管も破損してガスの匂いが充満していた。二次災害を防ぐため、エンジンカッターや画像探索機といった、高度救助用の機材はひとつも使えませんでした。
ぺしゃんこになった家の中にお婆さんが閉じ込められていると聞き、どこか自分の母親が重なって見えた。そこで『僕が行きます』と名乗り出ました」。
さらに「次に崩れてきたらあんたも死ぬよ、離れなさい」とも言われた。
「自分が死ぬかもしれない瀬戸際で、息子や孫、他人の僕を労る人だった。僕は『お婆ちゃん、本音はそうじゃないよね。本当は会って話したいし、また元の生活をしたいでしょ?』と言ったんです。お婆さんは『うん、でももう無理よ』と泣き出しました」。
話すことはできるが、彼女の身体は瓦礫に挟まったままである。容態はどんどん悪くなる一方、機材も使えず、短時間で救出できる状況ではなかった。
「僕はお婆さんの手を握りながら、『ここから出よう、諦めなければできるよ』と声をかけ続けました。現場に医師を要請し、レスキュー隊が全力を上げ、手作業で必死に掘り続けた。
5時間半後、ようやく救出することができました。僕は最後までお婆さんのそばにいましたが、救出時はもう意識がありませんでした。そして僕たちは次の現場へ向かいました」。
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