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レトロをトレンドに昇華したパイクカーも

並行するように、マーチをベースに開発されたのが「パイクカー」だ。スーパーコンセプターとも呼ばれた坂井直樹氏を企画スタッフに加え、大胆なボディをデザイン。1987年に「Be-1(ビーワン)」、1991年に「フィガロ」が発表され、大ヒットしたのだった。

この2台は、世界の自動車メーカーからも注目され、「レトロ(スペクティブ)」というコンセプトがデザインに採り入れられるきっかけを作ったのだから、歴史に残るモデルだ。

「Be-1ショップ」なる体感型ストアを南青山にオープンするなど話題になったBe-1(写真:日産自動車)

「Be-1ショップ」なる体感型ストアを南青山にオープンするなど話題になったBe-1(写真:日産自動車)


フィガロは2+2にキャンバストップを採用し、高級志向のクーペとされた(写真:日産自動車)

フィガロは2+2にキャンバストップを採用し、高級志向のクーペとされた(写真:日産自動車)


「僕が初めて出かけた日産の開発センター(神奈川県厚木市の日産テクニカルセンター)では、守衛室できびしく誰何(すいか)されまして、『真っ黒な服を着た変な人がきています!』とデザイン部に連絡されたのを覚えています」

坂井直樹氏が、のちに私に語ってくれた思い出だ。モータースポーツ活動に熱心な“硬派なマーチ”の開発陣にとって、レトロデザインの派生モデルはなかなか受け入れがたかったようだけれど、当時のデザイン部長の決断で企画にGOが出た。

パイクカーは、マーチのモデルチェンジが遅れたため、市場の興味をひきつけておくための“つなぎ”の役割とも言われたが、日産にとって重要なモデルになったことは間違いない。

1991年にはNISMO(ニッサン・モータースポーツ・インターナショナル)と開催したワンメイクレース「ザウルスJr.カップ」のためのレーシングフォーミュラモデル、「ザウルス・ジュニア」のベースにもなった。

ザウルス・ジュニアはもともと市販前提のザウルスとしてコンセプトモデルが発表されていた(写真:日産自動車)

ザウルス・ジュニアはもともと市販前提のザウルスとしてコンセプトモデルが発表されていた(写真:日産自動車)


1992年になって、マーチはようやく2代目になった。当時は今よりもモデルチェンジサイクルが短く、たとえば「セドリック」などは4年きっかりでモデルチェンジしていた中で、10年というモデルライフは異例に長かった。遅れたのにはいろいろな事情があっただろうが、それだけ「売れたクルマ」だったということだ。

なお、2代目も欧州的なハッチバックであったが、丸みをおびたデザインになり、だいぶイメージが変わって、私は少々驚いた。

スクエアなスタイルから一転して丸っこい形となった2代目マーチ(写真:日産自動車)

スクエアなスタイルから一転して丸っこい形となった2代目マーチ(写真:日産自動車)


Wikipediaのページには、「日本製コンパクトカーの中では異彩を放つ存在であり、日本におけるコンパクトカー市場の革命児とまで称された」と高い評価が書かれている。

「そんなもんかぁ」と、当時「妙に大人っぽくなっちゃったなぁ」と思った記憶を持つ私は、その記述を興味深く読ませてもらった。カブリオレとかワゴンの「マーチBOX」とか、派生車種はどれもカッコ悪いと思ったものだけれど……。

クルマの世界をおもしろくしてくれた

最終型となる1991年の初代マーチ(写真:日産自動車)

最終型となる1991年の初代マーチ(写真:日産自動車)


初代がクルマ文化の中に飛び込んだ先鋒だとすると、2代目はマーケットの中で作られたクルマ。「そこが違うんだよなぁ」と思うのだ。2代目もよく売れたクルマではあったが、文化を生み出した点で初代は偉大であった。

1980年代、日産自動車は数々のエポックメイキングなクルマを送り出した。高性能だったりスタイリッシュだったり、特徴はさまざま。

そこにあって、1982年のマーチは地味といえば地味なベーシックカーだけど、上記のとおり多くの派生車種が生まれ、クルマの世界をおもしろくしてくれたのはたしか。この功績は、いつまでも残るものだろう。

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小川 フミオ=文
東洋経済オンライン=記事提供

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