「セカンドキャリアのリアル」とは…… ロックミュージシャンから、48歳で弁護士に転身。
「the JUMPS(ザ・ジャンプス)」のボーカルであり、弁護士でもある島 昭宏さん(アーティスト名:島 キクジロウ)のキャリアは異色そのものだ。
なぜ彼は、40代後半で新たな道を歩み出したのか? 島さんの半生を辿った。
【写真14点】「バンドマンから48歳で弁護士になった男のロックな半生」を写真でチェック 話を聞いたのはこの人! 島 昭宏(しま あきひろ)●1962年生まれ、名古屋市出身。早稲田大学政経学部卒。1985年よりパンクバンド「the JUMPS」ボーカル。弁護士法人アーライツ法律事務所代表。一般社団法人JELF(日本環境法律家連盟)理事、東京弁護士会公害環境委員会 副委員長・動物部会長、日本ペンクラブ理事 平和委員長/環境委員を務めるなど、環境や人権の分野で活躍。「島キクジロウ&NO NUKES RIGHTS」のボーカルとしても精力的に活動中。
バンド活動、シリーズギグでシーンを牽引
名古屋市内で生まれた島さん。地元は“喧嘩が強いことがステータス”なエリアだったが、小学3年生の頃に新興住宅街に引っ越し、環境が変わった。
島さんと音楽との出合いは、意外にもロックではなくフォークだった。
「小学5年生で知った、フォークの神様・岡林信康のインパクトが凄かった。貧困や部落差別のことを明確に歌っていたのが刺さりまくったし、部落差別による狭山事件のことも知り『これは俺が変えないと』って思ったんだ」。
その後、島さんは県内随一の進学校である東海中学へと進み、高校生になると音楽活動も始めた。
「高校でバンドを組んで、それから1977年のパンクムーヴメントの影響で、クラッシュに衝撃を受けた。『ロックなら社会をひっくり返せる、これが生涯の道だ!』と、音楽で生きていくことに決めたんだよ」。
社会変革を胸に、東京へ出るため早稲田大学へ進学。すぐにバンドメンバーを集め、夏にはライブハウスに出演していた。
「あるときライブハウス新宿ACBから、『1日空いてるから好きなことやってみなよ』って声をかけてもらってさ。これが自分でイベントをやるきっかけ。イベントを企画して色んなバンドを集めたら、めちゃくちゃ盛り上がったんだよね」。
「JUST A BEAT SHOW」のオムニバスレコード。メジャーデビューする前のブルーハーツやレピッシュの音源も。
「続いて2回目も盛り上がっちゃったんで、1982年4月から『JUST A BEAT SHOW』というシリーズイベントを毎月やろうってことになったんだよね。1985年からは拠点を渋谷屋根裏に移し、自分のバンドも『ジャンプス』になった。その頃のシーンはぐんぐん盛り上がっていったね」。
「JUST A BEAT SHOW」には、のちに日本の音楽シーンを牽引するザ・ブルーハーツやザ・ストリート・スライダーズ、辻 仁成率いるエコーズやレピッシュ、さらにミッシェル・ガン・エレファントなど、錚々たるバンドが出演していた。
島さんは当時の熱狂をこう振り返る。
「ブルーハーツは85年結成だけど、86年に(イベントの)オムニバスアルバムを出す頃には、ライブハウスでは物凄い存在感があった。
甲本ヒロトとは同じ学年で、俺がイベントに誘って、彼らもジャンプスを見にきて、『いいね! やろうよ』って話になってさ。この頃はガンガン動員が増えていった時代。その後は資本が入ってきて、青田買いみたいにメジャーデビューするバンドも増えてね」。
周りのバンドはメジャーデビューしていくが、島さんは商業主義的なやり方をあちこちで批判していたこともあり、レーベルからは声がかからなかったという。
大学を5年で卒業し、その後もバイトや塾経営、飲食店経営をしつつ、音楽活動メインの日々を続けた。
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