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2023.10.25

ライフ

津波警報で避難せず、50分間も川を逆流。“床板1枚”で生還したプロダイバーの失敗談


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東日本大震災から12年半が経つが、津波から生還した自身の体験をいまも伝え続ける人がいる。宮城県東松島市野蒜地区で生まれ育った職業ダイバー、安倍 淳さんだ。

「リアリティを伝えること」を使命とし、これまで数百の取材や講演に応じてきた安倍さんに、津波に流されたあとの壮絶な50分間について伺った。

語り手は……
安倍 淳さん
安倍 淳●潜水工事事業を行う「朝日海洋開発」代表取締役。東日本大震災で被災した○日後から事業を再開し、行方不明者の捜索などに従事。12年以上、講義や実技指導を通して、震災で得た知見を国内外で積極的に伝えている。

安倍 淳●潜水工事事業を行う「朝日海洋開発」代表取締役。東日本大震災で被災した約1カ月後から事業を再開し、行方不明者の捜索などに従事。12年以上、講義や実技指導を通して、震災で得た知見を国内外で積極的に伝えている。


3.11の海は、まるでUFOのようだった

写真はイメージです

※写真はイメージ


地震が起きたのは3月11日の午後。僕たち夫婦が住んでいた野蒜地区は、震度6強でした。ようやく春が来るかなという頃で、まだまだ痺れる寒さが残っていたのを覚えています。

野蒜地区は海から数分の距離にある街で、僕は小さい頃からここに住んでいたのもあって、よく祖父母が津波の話をしてくれました。

でも、「ここには鳴瀬川の河口があるから被害は少ないだろう」って聞かされていて、ハザードマップでも50センチしか冠水しないことになっていたんです。実際は、その20倍の10メートルだったんですけどね。

安倍さんの仕事風景

潜水工事事業を営む、安倍さんの仕事風景


僕は1959年生まれで、子供の頃の日本はまだ高度経済成長期。今のようにファッションや車といったエンターテイメントはなく、海が唯一の遊び場だったんです。

いつも20人くらいの中・高校生グループで海にいて、河口を泳いで渡れることが男としての証明でした(笑)。それくらい海は身近だったし、海について知ってるという自信もありました。

ところが、東日本大震災で10メートル(最大遡上高)を超える津波を経験して、今まで信じてきたことが根本から変わりました。まるで、目の前でUFOを見たかのようにすべての常識が覆っちゃいましたね。

財産を捨て、逃げるがセオリー

※写真はイメージです

※写真はイメージ


地震が起きてまもなく、防災無線で「津波が来ます。高台に避難してください」と呼びかけられてました。

でも、僕らは夫婦で潜水工事の会社をやっていたので、地震でいろんなモノが壊れた事務所の片付けをしたり、船や倉庫、潜水の機材が無事かどうか見て回っていたんです。妻は、近所に住むお年寄りの安否確認にも行きました。

でも、本来は地震が来たら「すぐ逃げる」のがセオリー。自分の財産や近所付き合いを捨ててでも逃げるような思い切りが必要なんです。でも、僕にはそれがなかった。

ラジオでは「石巻・女川方面で軽トラックが流されています」「仙台市の荒浜交差点で200〜300人のご遺体が発見されました」って聞こえてきて、え? 何それ?と耳を疑いました。

その後も、「津波が3メートルに到達しました」「大津波警報に変わりました」という情報がどんどん入ってきて、妻に「避難所に行かなくていいの?」って聞かれたのに、「ここに津波なんて来るわけないだろ」って返事してるんですね。

僕は職業がダイバーなので、水難事故にあった場合の避難や訓練について何十年とボランティアで教えてた身です。それなのに、危機意識がまるで足りなかった。

でも、多くの人もそうなんだと思います。財産を守りたい、近所付き合いのある人の安全を確認したいって、そっちを優先して行動してしまう。僕らは日々、いろんなしがらみの中で生きてますから。


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