1953年生まれのブルネロ・クチネリは、貧しい農家の出身。工場労働者となった父親の悲哀を感じ、「人間の尊厳のために働く」と誓った。それはその後の彼のビジネス哲学、従業員に手厚い経営にもつながっている。カシミヤのセーターからスタートして、トータルなファッションブランドを確立。故郷イタリアのウンブリア州での手仕事にこだわり、ソロメオの村に拠点を置き、地域を挙げてブランドの商品製造に取り組む。
当記事は、「Forbes JAPAN」の提供記事です。元記事はこちらから。 瞬く間に、世界一流ブランドに上り詰めたブルネロ・クチネリ。このブランドが評価されたのは、その製品の質の高さだけではない。従業員や取引先などのステークホルダーとも“家族”のように向き合うその姿勢だ。
社会を底上げし、永続する会社をつくる実験とは。
※編集部註:本記事は「ForbesLife 2013年4月24日号」初出のものを再編集しています。 ブルネロ・クチネリは、ミラノやローマ、パリから来たわけでもなければ、飛躍の足がかりになるような有名なファッションレーベルでのキャリアも一切もたずにビジネスをスタートした。
2010年の段階でも誰もが知る存在ではなかったが、業界関係者の注目は集めていた。東京、パリ、ロンドン、ニューヨークにある彼のブティックでは2500ドルのスポーツコートが飛ぶように売れていた。彼が手を触れたすべて、とりわけカシミヤ製品のすべてが、シックと見なされたのだ。
クチネリは、高級ファッションの世界の華やかな脚光とは無縁の環境で育った。家は貧しく、父親は収穫の50%を小作料として地主に搾り取られる小作人だったが、彼は当時を「素晴らしい暮らしだった」と振り返る。クチネリが15歳のとき、父親はセメント工場に就職。一家は都会に移り住んだ。安い賃金できつい労働に従事し、上司から屈辱的な扱いを受ける父親を見て彼は人間の「尊厳」について考えるようになったという。
「自分にこう言い聞かせていました。“人生で何をするかはわからないけれど、何であれ、人間の尊厳のためになることをやるんだ”と」(クチネリ)
大学を中退したクチネリは、20代の前半をルソーやカント、マルクス・アウレリウスの思想を頭に詰め込み、バーに入り浸ってさまざまなことを議論することに費やした。そして25歳のとき、ひらめきを得た。ベネトンが鮮やかな色合いのウールのセーターでもうけているのを見て、その上を行けばいいと考えたのだ。自分も独自の鮮やかな色合いのセーターを、カシミヤでつくればいいと。
クチネリがソロメオオフィスのすぐ裏に建てた劇場兼オペラハウス。建物から階段状の広場へと続いており、図書館や円形劇場もある。
ただし、文無しだったクチネリは、自分流のやり方で周囲の支援を得る必要があった。彼は1ドルももたないまま、友人に白のカシミヤ糸を20kg譲ってもらえないかと頼みに行った。その友人は「お金が入ったときに代金を払ってくれればいいよ」と糸を譲ってくれたという。
「素晴らしいですよね。これが典型的なイタリアの村の文化なのです。互いを信頼し合っている。もしいつかお金を返さなかったりすれば、村中に知れわたることになります」(クチネリ)
あの人にひとつ、この人にひとつと方々で頼んだ結果、クチネリは6枚のスリムフィットのカシミアセーターを編み上げ、染めた。そして、売り込みに訪れた北イタリアのボルツァーノでカシミアセーター53枚の注文を得た。
クチネリのソロメオオフィスにある糸巻きとヒーローの壁。聖ベネディクトからバラク・オバマまで、人間の尊厳を重んじるクチネリにとってのヒーローたちの肖像が飾られている。宮沢賢治の肖像も。
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