シャツ3万8500円、パンツ3万9600円/ともにエンジニアド ガーメンツ 03-6419-1798、その他すべて私物
▶︎すべての写真を見る 一生続けると思っていた芸能の世界から離れることに。「手に職を」と思って選んだのがコーヒーの仕事だった。
前回に話を聞いたのは社会がコロナ禍となる前。
その後の数年で坂口憲二は事業に安定感をもたらし、波が良ければ海に入り、多くの家族時間を過ごしながら、人の前に立つことが仕事だったときには得難かった心地いい時間を毎日の暮らしの中で味わっていた。
「大切なものすべてを惜しみなく楽しむ」
人生で初めてエンタテインメント界の気持ち良さに触れたのは中学生のとき。それは“世界の荒鷲”と呼ばれ多くの人に愛されたプロレスラ—、父・坂口征二の引退セレモニーでのことだ。
花束贈呈のためリングに上がり父の登場を待っていると、しだいに満員の観客から“坂口コール”が鳴り響いていった。その声は高まり続け、場内は大きく揺れ動くように。観る者が熱病に冒されていくような様子を目にした坂口憲二は、その熱を生んだ父の存在に、「親父はすごいことをやっていたんだな」と羨望の気持ちを抱いた。
ほかにも幼少期にエンタテインメントの世界と触れた記憶はある。征二が新日本プロレスの社長を務めていたころに東京・六本木のテレビ朝日社内にオフィスを構えていたときがあり、しばしば顔を出すことがあった。すると音楽番組出演のために来局中のタモリさんの姿を目にするといったことがたびたびあったという。
プロレスの試合を見に行けば、たまに入れてもらえた控室で、アントニオ猪木さんや長州力さんがすぐそばにいる時間を過ごしたこともあったという。
モノを作る。人を喜ばせる。そのような仕事を自分もするようになるのかな。そんな思いを少年時代に漠然と抱いた坂口が、実際に表現の世界に携わるようになったのは、ホテルスタッフになるべくハワイの大学に進み、その志を実現しようと帰国したときのこと。
2/4