「しつけ」を「おしつけ」にしない
イヤイヤ期におけるポイントのふたつめは「しつけの始まり」である。子供は歩いたり、言葉を発するようになることで徐々に「自分でできること」を増やしていく。それを見た大人は、家族という共同体の中で「自分のことは自分でやる」「周りのペースにあわせて行動する」ということを要求するようになる。
つまり、子供が自由意志を発揮すればするほど、親として「早く着替えなさい」「おもちゃで遊んでないでこっちに来なさい」といったしつけをするようになる。それに対して子供が「イヤっ」と反応する。その繰り返し。
ここで、子供の立場になってみよう。ちょっと前まで、泣こうがわめこうがおしっこ漏らそうが笑顔で反応していた周りの人間が、ちょっと自由に動き出したと思ったら、とたんに「あーせい、こーせい」と束縛する。「もっと自由でいたいのに。なんで自由じゃいけないの?」
こう感じている子供に対して、「いいから、●●しなさい!」という一辺倒では単なる価値観のおしつけである。大人の理屈で言えば「当たり前のこと」。でも、この時期の子供にとっては価値観のコペルニクス的転回を求められているに等しい。
「どうして周りのペースに合わせなければいけないのか?」
「どうして、いま、着替えなければいけないのか?」
それを理解させるための努力があっての「しつけ」である。
周りのペースに合わせると、周りが喜ぶ。今、着替えると、外に出て遊べるから自分が楽しくなる、といった具合に、一つひとつの行為の意味や意義を子供なりの観点から理解、納得させていけば、自ずと子供も周りの要求に応えられるようになっていく。もしくは、それが「やってはいけないこと」と認識できるようになる。そうした子供目線での理解、共感なしに、ただ命令を続ければ、極端に言えば拒否することを許されない奴隷のような気分になってしまうだろう。
「そういうものだから」「そうすべきだ」と大人目線を捨て、根気よく、丁寧に、子供の価値観を形成していくことこそ、しつけの本質だと言えまいか。
それでもオトーチャンズは「イヤっ」と言われると感情的になってしまう。言葉の額面通りに受け止めてしまったり、忙しさのあまり「そういうものだから」と大人の価値観を押しつけがちである。それは人間だから仕方がない。でもこのイヤイヤ期に根気よく子供と向き合うことで言葉の真意をくんだり、押しつけではなく価値観を共有する心づもりで接したりすることは、その後の思春期などの成長過程における円滑なコミュニケーションはもちろん、普段の仕事や大人同士のコミュニケーションをより良くするヒントにもなるはずだ。
島崎昭光=文 asacom.=イラスト