スタープレーヤーが秋波を送った
パトリックは1892年、西フランスのプゾージュという小さな村でパトリス・マリーが息子たちとともに立ち上げた工房がそのルーツだ。農業用の履物を生業とした工房は地元の人々に愛され、たちまち30人ほどの職人を抱える規模に成長した。
パトリックの歴史が大きく動き出すのは1931年。立役者は病に倒れたパトリスに代わって指揮を執った二代目のベネトーだ。ベネトーはその年にサッカースパイクのピン位置に関する論文を発表し、商工省から“Invention Certificate(発明証) ”を与えられた。
サッカースパイクを手がけた真相はいまとなっては藪のなかだが、史実を振り返ればおおよそ次のようなストーリーを描くことはできる。
ベネトーが論文を書き上げる前年、1930年はあのFIFAワールドカップがはじめて開催された年だった。国境を超えて盛り上がりをみせていたこのあらたなムーブメントに大いに刺激を受けただろうことは想像に難くない。ベネトーは休みの日には体を動かすことが大好きなスポーツマンで、なかでもサッカーはお気に入りのスポーツだったというからなおさらだ。そうしてかねて不満に感じていたピンの改善点をまとめたのではないか。
確かなことは、ベネトーは研究熱心な性分だったということだ。軽量で安全なアルミ素材のピンをつくったのもベネトーなら(それまでは鉄だった)、深い芝、硬い芝、濡れた芝、人工芝などグラウンドの状態に応じたソールをいち早く考案したのもベネトーだった。
パトリックのアイコンである2本ラインの採用も早かった。それは激しい動きにも耐えうる強靭さを求めたもので、初出は1930年代のことといわれている。
念のために解説すれば、名だたるブランドの同種の意匠の誕生は次のとおりである。スリーストライプス(アディダス):1949年、フォームストライプ(プーマ):1958年、アシックスストライプ:1966年、スウォッシュ(ナイキ):1971年、サイドストライプ(ヴァンズ):1978年、ベクターロゴ(リーボック):1986年。
スタープレーヤーはフランスの片田舎のこの工房を放っておかなかった。
とっかかりはバロンドールを2回受賞したケビン・キーガン。ケビンが履いたことで、パトリックはイギリスにその存在を知られることになる。ほどなくミシェル・プラティニ、ラウドルップ兄弟、ピエール・パパンがワールドワイドなブランドに押し上げた。
プラティニはパトリックと契約するためにヘリでブゾージュを訪れた。おらが村にスターがやってきたとあたり一帯は蜂の巣をつついたような騒ぎになったという。
プラティニにはアディダスも目をつけていた。アディダスはパトリックの倍の契約金を提示したが、首を縦に振らなかったそうだ。ユベントスに移籍したばかりのプラティニはフランスのサッカーファンに裏切り者と思われていた。フランス生まれのパトリックと契約を結ぶことは金には代えられない意味をもっていたというわけだ。
しかし理由はそれだけではなかった。プラティニはのちにこんなコメントを残している。「パトリックは家族経営の会社で、そしてベネトーは職人気質な男だった。そこに好感をもった」と。
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