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フランス生まれ、日本育ち

正式にパトリックの名を冠したのは1950年代半ばのこと。創業者の名を採ったが、英語圏でなじみやすいよう、パトリックと読ませることにした。
順調に商売を広げていったパトリックは、村の人々を積極的に雇い入れた。1960年代には700人の従業員を抱え、フランス国内ナンバーワンのサッカーシューズメーカーにのぼりつめた。ヨーロッパにおけるサッカーシューズの知名度ランキングでは3位にランクインした。
創業当時のフランスの工場。
しかしパトリックのサクセスストーリーはここまでだった。残念ながら現在、フランス本国のパトリックは消滅している。1998年の倒産と同時にその商標権(日本、アジア、オセアニア圏)を買い取ったのが日本のカメイ・プロアクトである。
パトリックが日本上陸を果たしたのは1978年。1990年にはライセンス契約も結んでブランドの顔ともいうべきモデル「マイアミ」をつくった。
カメイ・プロアクトが慧眼だったのは、木型も当時のそれなら、デザインも当時のそれを守り続けている点にある。「マラソン」「ブロンクス」「ネバタ」「アートイス」「スタジアム」……。往年の名作は今なおクリーンナップを務めている。
「パトリックは手を加えることのできない完成されたデザインをかたちにしています。我々はエターナルなデザインにふさわしい新味を追求してきました。それが、色素材のアップデートです。しかしこれもまた、パトリックの伝統なんですけれどね」(竹原健治さん、商品企画セクションサブマネージャー)。
パトリックを象徴する豊富なカラーパレットはフランス時代に確立したデザイン・アプローチだ。きっかけは、ベネトーがアメリカ出張で目にしたナイキ。ヨーロッパにはないカラフルなモデルにベネトーは釘付けになった。それまでサッカーシューズといえば黒と相場は決まっていたが、ベネトーは異なるアプローチをする必要性を感じていたのだ。
「現在の色展開は1モデルにつき1シーズンで5色平均。カラーパレットのポイントはあくまでフランスならではのシックさ、ポップさがあるかどうかで、トレンドは意識していません。すでに我々が扱うようになって半世紀近い年月が流れていますからね。色出しがブレることはありません。もちろん、『これは前にもあったんじゃないか』ということはありますが(笑)」(竹原さん)。
パトリックは加熱するスニーカーブームなど我関せず、といった趣で一本筋の通ったものづくりを続けている。これが世のスニーカーに飽き足らないエンドユーザーの心を捉えて放さない勝因なのだが、勝因はひとつではない。生産背景もまた、大きなプライオリティである。


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