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そして2011年6月、ビッグパレットに「見学」のつもりで訪れた2人は、その日からいきなり「出演」することになる。
「最初はビビりましたよ。実際に避難している人たちが生活している場ですからね。『俺たちみたいなのが入っていいの?』みたいな。そしたら天野さんに『おお、よく来たな』って呼ばれて。『お前ら今日からここで働くから、分からない事があったら、この人たちに聞け』みたいな、新入社員ばりの案内されて(笑)」(中村)。
郡山市富田町のサポート拠点、「おだがいさまセンター」に開設された「おだがいさまFM」のスタジオ前で、センター長の天野和彦氏(中央)と。(写真:天野氏提供)
「それで、その日からいきなり出さされて、めちゃめちゃ緊張ですよ。けど、富岡の人たちがみんな優しくて。番組終わりに『ありがとう』って言われて。『いえいえ、僕らまだ何もしてないですよ』って言ったら、『福島では、若い人たちが離れていってるのに、わざわざ「住みます」って来てくれて、ありがとうね』と」(いなの)。
こうして福島に来て約1カ月後、2人は、避難所に開設されたミニFMで週1回の、初めての“レギュラー番組”を持つことになった。

福島でやっていけると思った

ほんと勉強になりましたね。ラジオで話すこと自体、初めてだったんですが、リスナーはみんな、避難している人たちでしょ。どんな話し方、聞き方をすれば、被災した人たちを傷つけずにすむか。全部、おだがいさまのスタッフから学んだ、というか、盗みました」(中村)。
「当時、番組の最初に毎回、(各地の放射)線量を言ってたんですよ。『どこそこの地域は何マイクロシーベルトパーアワー(μSv/h)』って。そんな芸人いないだろうって(笑)。けど、2人のしゃべりを聴いて、地元のラジオやテレビ局の人たちも安心してくれたんですかね。ちょくちょくお試しで使ってくれるようになったんです」(いなの)。
その後、「おだがいさまFM」は避難所の閉鎖に伴い、2011年8月に閉局した。だが、富岡町民の要望を受け、郡山市富田町の仮設団地に設けられたサポート拠点「おだがいさまセンター」にスタジオを開設。臨時災害局として放送を再開した。天野が再び語る。
「そのころには2人も地元のテレビやラジオに出始めていたので、避難所が閉鎖される際に、『(パーソナリティーを)辞めるんなら、ひとつのきっかけだと思うよ』って言ったら、『続けさせて下さい』と。
『僕らがこれから福島でやっていけると思ったのは、ここがあったから。恩返しのつもりで続けさせて下さい』って。あれには、胸が熱くなりましたね。ギャラも満足に払えないのに、義理人情があるな、まさに『おだがいさま』な奴らだな、と」。


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