OCEANS

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メーカーから「ごめんなさい、10分の1のコストでつくることができるので中国で生産します」と言われたら、下請けの業者はなにも言えないですよね。注文がないので工場は止まり、天国から地獄に落ちた感じがしました。
しかも、私が入社した年から会社の業績が悪化したので、お前のせいじゃないかという雰囲気が社内にはありました。
とはいえ、自分たちにできることを、とにかくやるしかなかった。注文もないのに、糸を買って商品を生産し、週末には朝5時に起きて、妻と一緒に商品をトラックに積み、雪道の中を4時間も運転して行商に出かけていました。スーパーの前にテントを張り、1日中立ちっぱなしでセーターを売ったこともあります。
周りの会社もどんどん倒産していくような状況のなか、とにかく会社を守ろうと必死でした。(転機①)
──製造業全体が厳しい時代。その後、31歳の時に迎えた大きな転機とは? 
糸を購入していたイタリアにあるニット工場から、「うちの工場を見にこないか」と言われて現地に行ってみたんです。そこで衝撃的なものを目にしました。
そのニット工場の職人たちは、われわれが使っているのと同じような機械を自分たちで改良し、古い機械の柔軟性も活かしながら、実にさまざまな種類や特徴を持つ糸をつくっていたんです。その発想や糸の色味など、全てが私の想像を超えたものばかりで、「こんなことができるのか」と目から鱗が落ちることの連続でした。
糸づくりの工場というのは、基本的には発注されたものをつくって売り上げを立てています。その結果として、アパレルから紡績まで日本にあるほとんどの衣料関係の会社はトレンドを追ったものづくりをしているわけです。ところが、私が訪れたイタリアの工場では、糸を製造している人たち自身が、自分たちのつくりたい製品を糸からつくっていたんです。
この時、私が震えるぐらい興奮していると、工場長が出てきて、「俺たちはここで世界のファッションの元をつくっているんだ」と言いました。「自分たちがあって、世界があるのだ」と。
つまり、自分たちがつくったオリジナルの糸を、ぜひ製品に使わせてほしいと、世界的なファッションブランドが買いに来る。そういう意味で、「ファッションの元」をつくっているのだと言うのです。
自分より年齢がひとまわり上の工場長が目を輝かせてそう自信を持って語るのを聞くうちに、理解しました。ああ、この人は本当に糸づくりが好きで、夢を持ってものづくりをしているのだと。
このままでは、日本の衣料関係の製造業は永遠にイタリアには追いつけない。足りないのは、ものづくりに対する思いだと、自分たちのやり方を根本的に考え直さないとダメだと痛感しました。(転機②)
──イタリアで目撃したことが、その後の佐藤繊維のものづくりに大きな影響を与えたのですね。
早速、私たちもオリジナル商品の開発を始め、2000年に開催された国内の展示会では、佐藤繊維の独自技術を使った商品を初めて発表しました。
特殊な糸をつくることのできる工場が限られているなかで、突然、山形からそういう工場が現れたわけですから、業界ではかなり話題になりました。有名ブランドからも発注が来るようになり、会社が伸びるきっかけになりました。
佐藤繊維ウェブサイトより


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