存続の危機を乗り越え、ストリートアイコンへと進化
結果、その噂は杞憂に終わった。というよりも、メリーランド州ボルチモアにある3つのスニーカー小売店がエア フォース 1を救った、と言うほうが正しい。
彼らはナイキに直訴し、1店舗あたり1200足のエア フォース 1を販売することを条件に再生産の確約を得る。振り返ればこれは、今の“別注スニーカー”の先駆け的な出来事だったのかもしれない。
危機を乗り越えたエア フォース 1に、またもや転機が訪れる。
1988年にファーストモデルが復刻されたことで人気が加熱し、その勢いはアメリカ全土へと広がっていく。
1990年代は、エア フォース 1にとって間違いなく飛躍の時代だった。
ここでのブームを創ったのはNBAのスタープレーヤーではなく、ストリートでの熱烈な支持者たちだった。エア フォース 1の洗練されたデザインは、時を経てファッションアイコンとして認知されつつあったからだ。
そして1994年には、シリーズ初のミドルカットモデルを発表。明らかにファッション層に向けて提案されたもので、当時の時代背景を物語っている。同時期に登場した「ジェルスウッシュ」のエア フォース 1も然りである。
さらに、スニーカー業界全体でコラボレーションが盛んになったことも、エア フォース 1の認知度を高める後押しとなった。コラボブームの発信地のひとつが、東京のスニーカーシーンであったことも、とても興味深い。
2002年、ラッパーのネリーが『Air Force Ones』という曲を発表したことからもわかるように、いつしかエア フォース 1はバスケットボールシューズという枠を超えた憧れのスニーカーとして進化し、世界中の人々を魅了する存在となっていたのだ。
その後、完全に市民権を得たエア フォース 1の勢いは、さらに加速していく。
戸叶庸之=編集・文 ナイキ=写真