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厳しくも愛情のある叱責を受けながら、中山氏は高田の信頼を少しずつ獲得していく。パーティーの際に会場に花を配置する役割も、専門のコーディネーターからいつしか中山氏が担うようになった。
「コーディネーターはいろいろ指示を受けながら翌朝まで作業していましたが、僕がやるようになってからは賢三さんはほとんど口を出さなくなりました」。
そして、高田と中山氏は、ファッションデザイナーと料理人というジャンルの壁を超えた、師弟でありながら親子のような絆で結ばれていく。
2004年のアテネオリンピックの公式服装のデザインを依頼されていたとき。高田は中山氏に「どうしたらいいと思う?」とアイデアを求めてきた。
「ファッションはもちろん門外漢です。が、僕なりに考えて『遠目からでも日本の国旗が映えるようなデザインがいいのでは?』と提案してみたんです」。
すると後日、高田がそのアイデアをもとにデザインを100通りも描いて、おまけに試作品まで作ってきた。
「結局そのアイデアはボツになったのですが、僕の意見に対してそこまでするのかと。驚きました」。
専属料理人として中山氏が高田の信頼を得てきたたからこそ、高田もまた中山に心を委ね、意見を求めてきたのだろう。かつ、それをアイデアで終わらせずに真剣に受け止め、形にする。高田のプロフェッショナリズムと中山氏へのリスペクトを物語るエピソードだ。

「もっと景気がいい時に助けてやれたらなぁ」

さて、中山氏が高田の下に来て7年が経ち、いよいよパリに念願だった自身の店を出すことになった。物件も見つかり、工事費用などの開業資金を支援する出資者も高田が紹介してくれた。
ところが、そこに急に襲い掛かったのが未曽有の金融危機、リーマン・ショック。「アメリカに行く」と言われたきり、出資者とまったく連絡が取れなくなってしまった。
フランス独自の商業権「フォン・ド・コメルス」は、パリで商売をするとなると数千万円と高額。とても一人で工面できる金額ではない。開業は一転、暗礁に乗り上げたが、ここでも手を差し伸べてくれたのが高田だった。
「賢三さんも自身の事業に失敗し、苦しい時期でした。それでも、バスティーユの自宅を売却したお金で商業権を得るための資金を貸してくれ、銀行にも掛け合ってくれました」。
日本人がパリで商売することに対して、まだ風当たりが強かった時代。でも、世界的な知名度を誇る高田が保証人となってくれたおかげで、融資のめどが付いた。ここにも、どんな時でも我が子を見捨てない親のような高田の愛情がうかがえる。こうして、中山氏は晴れて自身の店「Restaurant TOYO」をパリに構えることができた。
「いつだったか、その当時を振り返って『私がもっと景気がいい時に、助けてやれたらなぁ』と笑っていました。賢三さんのそうやってカッコつけないところが粋なんですよね」。


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