オーシャンズ世代の大人カジュアルの基本は、なんてったってアメカジ。
そこで日本におけるアメカジの歴史と変遷を、世代の違う3人のアメカジラバーと一緒に振り返ってみた!
| スタイリスト 井嶋一雄さん Age60 メンズファッションを中心に、雑誌や広告、CMなどで幅広く活動。音楽からインスピレーションを受けたスタイリングを得意とする。 |
| ファッションジャーナリスト 増田海治郎さん Age47 出版社、繊維業界紙での経験を経て、現在はファッションジャーナリストに。著書に『渋カジが、わたしを作った。』(講談社)がある。 |
| スタイリスト 平野俊彦さん Age35 長谷川昭雄氏に師事した後、2018年に独立した気鋭の若手スタイリスト。MV、アーティストのスタイリングを中心に活動。 |
井嶋 のっけから申し訳ないんだけどさ、俺パンクだったの(笑)。
増田 えー(泣)。
井嶋 僕よりも2〜3歳上の人は、完全にアメリカなのよ。ジミヘンやジャニスを聴いて、ファッション的にも日本版フラワーチルドレン。でも、僕ら世代のファッションに対する初期衝動はパンクだったんだ。
平野 音楽もそうだったんですか?
井嶋 うん。ピストルズにダムド、クラッシュとかね。ファッションはヴィヴィアン・ウエストウッドやセディショナリーズが憧れで、ライダーズに安全ピンを刺したり、穴あきジーンズをはいたり。
増田 1970年代後半って、「ポパイ」やビームス経由のアメリカ西海岸文化が主流なイメージです。
井嶋 もちろん、西海岸もあったよ。ナイキはニケって呼ばれたし(笑)。
平野 都市伝説だったのかと!
増田 当時はイギリスとアメリカのスタイルを行き来してたんですか?
井嶋 自分はパンク寄りだったけど、もちろんアメカジなものも取り入れていたかな。バックドロップで、リーバイス501のヴィンテージを買ったり。のちにラブラドールリトリーバーを立ち上げる中曽根くんに教わってね。
増田 アメカジの黎明期ですね!
井嶋 フランス人も早かったけど、最初にアメリカ古着に価値を見出したのは日本人ですよ。
平野 増田さんは、いつ頃アメカジに目覚めたんですか?
増田 ’86年に原宿の竹下通りにあるパナマボーイという店で、古着の501を買ったのが最初です。MA-1にケミカルジーンズを合わせるスタイルが流行っていて、DCブランドも少しアメカジ寄りになっていた頃。ポッシュボーイのスタジャンとか欲しかったな。
井嶋 懐かしいねー。
増田 井嶋さんがロンドンに留学していたのは何年頃ですか?
井嶋 ’85〜’86年だよ。この時代に音楽にどっぷり浸かったんだけど、ファッションより先に音楽があるのは、いつの時代も変わらないかな。
平野 渋カジもこの頃ですか?
増田 ’86年頃に渋カジのチームが誕生して、この頃は仲間内で盛り上がっていた時期。’89年に雑誌が紹介して、全国的な流行になりました。
井嶋 当時は自分も渋カジに近い格好だったな。バンソンのレザージャケットを着て、レッド・ウィングのエンジニアブーツを履いてね。大型のバイクに乗っていたら、自然とアメカジに行き着いた感じ。
平野 ネペンテスの清水慶三さんが立ち上げたレッドウッドがカリスマ的な店だったとか?
井嶋 そうだね。レッドウッド、プロペラ、スラップショットなんかが時代をリードしていた。今考えると、自分のファッションが最もアメリカ寄りだったのがこの時期。でも、バンソンはピーコート型のブラックレザーだったし、パンツもブラックデニム。エンジニアはブーツインで履いていて、それはクラッシュの影響が強かったから。物はアメリカだけど、着こなしは典型的なアメカジにならないようにしていました。
増田 渋カジの当事者としては、この頃は全身アメリカものじゃないと落ち着かなくて、日本のブランドを着るのがとにかく嫌でした。インポートショップの先輩たちは、国やテイストを自在にミックスしていて、ピュアじゃないなって(笑)。
井嶋 今振り返ると、あの頃の渋カジって異常なアメリカ崇拝だったよね。でも今じゃ、増田くんはアメカジのアの字もないじゃん(笑)。
増田 全身アメカジは似合わないと悟ったので、1点だけ取り入れるスタイルに落ち着きました。最近も憧れだったメアリーズ ピティック レザーのムートンをヤフオクで買ったりして、あの頃のテイストからは一生逃れられない気がします。
井嶋 ムートンも流行ったよね。ソイヤー オブ ナパとか。
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