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「当時はラクロスのルールすらよく知りませんでした。勧誘をしている先輩たちに、『関西では小中高でラクロスをやっている学校はないから、全員初心者スタートだよ!!』と言われて、だったらやってみようと思って入りました。そういうところの思い切りは妙にいいんです。ラクロス部の友達や先輩はいまだに何人かつながっていますね」。
大学には5年間通って卒業した。卒業したら、映像系か出版系の会社に就職しようと思っていたのだが、なかなか決まらなかった。「大学を卒業して、実家でダラダラと履歴書を書いていたら、親に『金貸してやるから出ていけ!!』って言われてしまいました。とくにあてもないまま、独り立ちすることになってしまいました」。
小学時代から付き合いのある友達がすでに東京で働いていた。澤村さんはその友達をたよりに、彼が住んでいる小田急線の千歳船橋駅の近くに移り住むことにした。無職だったから、親に借りている虎の子のお金が減らないよう慎ましく暮らした。
「上京して2カ月くらいたった頃、新聞広告でとある出版社のアルバイト募集を見つけました。さっそく面接に行くことにしました」。
面接を受けたのは、都内にある中堅どころの出版社だった。面接に現れた編集長は真っ黒に日焼けした40歳くらいの男性だった。その横には金髪のツンツンにした不良っぽい人が座っていた。奥からは腕にタトゥーをいれた人がのそっと出てきた。正直、「こわいなあ……」と思ったが、面接には合格した。そして翌月から働くことになった。
「それまでにアルバイトは、本屋や生協のレジ打ちしかしたことがありませんでした。出版の知識も能力もまったくないので、なかなか仕事はできませんでした。また今までの人生では出会ったことのない、変な人ばかりがいて大変でした」。

カッコつけの態度を改めて信頼を獲得

出版社での最初の2年間はかなりキツかった。うつ状態になってしまったり、心労から遅刻してしまったりしてクビになりかけた。なんとか頑張って働いていると、担当する雑誌を移ることになった。実質2人の編集者で月刊誌を作ることになってしまった。
「25歳のときでした。かなり大変な仕事になるのは目に見えていました。『とにかく開き直ってがむしゃらにやろう』と腹を決めました」。
それまでは、ついカッコつけようとして、知ったかぶりをして裏目に出ることが多かった。仕事ができないのをごまかしているのを先輩に見透かされて、ずいぶん怒られた。
「そういう態度は改めました。『僕はこういう誌面を作りたいんですけど、やり方がわかりません。どうしたらいいか教えてもらえませんか?』と、先輩たちに正直に聞くようにしました。そうしたら誰も怒らなくなりました。逆にみんな手を差し伸べてくれました」。


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