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渋谷が庭だった少年時代

——山梨さんの出身は東京・渋谷なんですよね?
そうですね、自宅の近くに原宿キャットストリートがありました。

 
——キャットストリートが庭だった?
いえ、はい(笑)。
——現在42歳。どんな高校時代でした?
古着ブームが始まっていましたね。よくリーバイスのXXにエンジニアブーツを合わせていました。タイミングとしてはチーマーが姿を消して、外国人の姿が多くなり、日本発のストリートブランドが元気になり始めていた頃。これからどのようなブームが生まれるのだろうと感じていた状況でした。
——当時は男子高校生によるファッションシーンも元気でしたよね。
そうですね。それに高校時代はヒップホップが入ってきたタイミングだったんです。3年生になるとDJをやってる友達とか、音楽に詳しい人も周りに増えていきました。
——生粋のシティボーイが海と接点を持つようになるきっかけは?
大学進学ですね。生まれ育った環境もあり中高時代は遊びが過ぎまして(笑)、このままだと自分は将来使い物にならないと。
大学は本気で心を入れ替えて過ごそうと思ったんです。父親がウインドサーフィンをしていたこともあって私も少しかじっていました。友達から遊びに誘われる日々のなかで、海の時間だけは自分だけのもの。ならば大学はウインドと真剣に向き合おうと、当時、大学日本一だった関東学院に進みました。
——大学進学前はどのくらいのペースで海に行かれていたんですか?
横須賀に父親がアパートを持っていまして、中学時代は夏休みになるとそこにずっといました。高校生になるとあまり行かなくなってしまったんですけどね。

——それで、大学進学とともに本格的に海と向き合うことになる。
はい。単に大学へ行ったのではなく、「当時大学日本一だった関東学院のウインドサーフィン部に入学した」ともいえる感じでした。ウインドサーフィンにはヨットとサーフィンのいいとこ取りという側面があります。風で進み、波にも乗れます。自在に操れるようになると海の上で自由になれて、とても面白いんです。
道具が大きかったり、風をうまくつかめず流されたりというリスクなど、敷居は確かに低くないんですが、ウインドサーファーだから味わえる快感があるんです。
——メンタルも鍛えられましたか?
例えば2月、ウインドサーフィンのスポットとして有名な伊勢湾には雪解け水が流れ込み、とても冷たいんですよ。海水温は10℃を切り、気温も雪が降るほど。風も強い。そのような状況にウェットスーツを着て挑み、3m72cmのボードに6.6㎡のセイルを広げて大海原へ飛び出していく。
今思えば正気の沙汰ではないですが、過酷な海でトレーニングを積んだ経験によって、どのような困難な状況でも平常心でいられる強さを育めました。命までは取られない。そのような心の在り方ですね。
——オリンピックも目指されたとか。
2004年のアテネオリンピックでは最終選考まで残りましたが、本大会には出られませんでした。その後に選手を退くんですけれど、海外の大会にも出場して世界とのレベルの差を痛感していましたし、合宿中に膝の怪我をして2〜3kmしか走れない身体になり、続けることは諦めたんです。
 
「プラごみゼロ宣言」という先進的な取り組みをする町長という肩書からは、いささか想像しにくい経歴を持つ山梨さん。彼が今、葉山を通じて叶えたい夢とは? 後編へと続く。
 
熊野淳司=写真 小山内 隆=取材・文


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