1991年の初秋、頭のてっぺんから爪の先までアメリカにこだわっていた渋カジに、フランスの要素が流れ込んできた。
グレーに色落ちしたリーバイス501のブラックジーンズと、トニーラマの黒のウエスタンブーツはアメリカのままだが、シャツはフランスのアニエス・ベーのブラックシャツを取り入れた。
で、お父さんの箪笥から拝借したネクタイを締めれば、嬉し恥ずかし懐かしのデルカジ(モデルカジュアルの略)のできあがり。1991年の秋に日大武山のカリスマ高校生が生んだこのスタイルは、オーシャンズ世代の多くにとって、初めて触れた“フランス”だったに違いない。
アメカジ文化に吹き込んだ“フランス”の風
この頃、音楽の分野でもフレンチの波が押し寄せてきた。1989年にデビューし、2ndアルバム『CAMERA TALK(カメラ・トーク)』で注目されたフリッパーズ・ギターの小山田圭吾と小沢健二は、渋カジとはまったく違うフレンチテイストの服に身を包んでいた。
ピチカート・ファイブ、オリジナル・ラブらとともに、彼らのヨーロッパの60〜70年代のスタイルを下敷きにした洗練された音は、1991年頃から「渋谷系」と呼ばれるようになり、音楽の面でもファッションの面でも当時の若者に大きな影響を与えた。
オリジナルをディグる動きも顕著となり、1991年に逝去したセルジュ・ゲンスブールはフレンチ派のカリスマに。映画でも、ジャン=リュック・ゴダールをはじめとした50〜60年代のヌーヴェルヴァーグの作品があらためて注目され、1991年に公開されたレオス・カラックス監督の『ポンヌフの恋人』は、単館系としては異例の大ヒットを記録した。
デルカジとアニエス・ベーに端を発したフレンチの流れは、92年頃になるとファッションと音楽、映画などを巻き込んだ多角的で文化度の高い流行になった。当時、そうしたフレンチ派がこぞってはいていたのが、1991年の代官山店を皮切りに日本に進出した「A.P.C.(アー・ペー・セー)」のジーンズだ。
バックポケットにステッチが入らないこのミニマルな「ジーンスタンダード」という名のジーンズは、それまで触れてきたアメリカのデニムにはなかった都会的な匂いがあった。ナードなフレンチスタイルはもちろん、どんなスタイルにも似合う汎用性と、質実剛健な作りと抜群の色落ちに、若者たちは夢中になった。
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