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海外でカルチャーショック! じゃあ、それをどう吸収するか


支社は広州・上海・深圳にあったが、営業活動は「新製品開発部門」のようにマーケティングからスタートして製品を開発、その後PRを行い、中国全土の電機メーカーへ売り込む。それを、製品ごとのチームで行うのである。

「中国進出の大きな目的のひとつに“現地化”というものがありました。われわれの一連の営業活動のやり方を、中国の人だけでできるようにレクチャーしていくんです。ちょっと言い方は偉そうですけど、僕には日本での仕事のやり方を伝える“お手本”みたいな役割もありました」。

だが、須永さんのほうが圧倒的に中国側の“現地化”の波にさらされてしまったのだ。

「赴任の日に飛行機から見た土地があまりに広大で“ああ、大陸だなあ”って漠然と思ってたんですが、いざ仕事を始めたらスケールに圧倒されてしまいました。営業先は中国企業で、メインは日米の電機ブランドのOEMなんですが、発注される数字が違いすぎるんです。ケタがふたつ多い!(笑) 日本だと“月1万個”って発注されても“多いなあ”っていう印象なんですが、平気で“100万個”。時には“1000万個”の世界。これは半端じゃない! と」。

そしてスピード感も圧倒的。

「日本だとまずきちんと開発スケジュールを設定します。新製品の場合、性能評価に1年かけてサンプル製作期間は2カ月とって……って予定を立てるんですけど、僕が中国で体験したのは“まずリリースしましょう!”。出してみてから、多少の問題点は次の製品でアップデートする。サンプルも“じゃあ2カ月後に”って言おうとすると、“いえ、明日持ってきてください”という世界」。



「本当に衝撃を受けましたね」と、須永さん、しみじみという。日本でのやり方を中国の人に伝えるだけでなく、中国でのやり方をキャッチアップできるように会社にも意識を浸透させる。

ここに至るまでの須永さんは、厳しい状況に直面するたび「今の自分がどう対応できるか」を考え、「その環境下で最大限に実力が発揮できるやり方」を実践してきた。でも中国には歯が立たなかった。

「正直、それまで僕にとっては日本が世界の中心でした。治安はいいし、物価もまあまあ安いし、ごはんもおいしいし、製品の性能は優れているし。ただそれは僕が日本しか知らなかっただけなんです。いざ中国に来てみると、この国で“世界のものが作られている”ということを実感しました。圧倒的に自分が世界を知らないことを思い知らされたんです。

僕が知っていたのは日本と日本のやり方。それを勝手にワールドスタンダードだとして、世界どこでも通用すると思っていたんですね。世界で通用するには、世界の考え方を知らないといけない。じゃないと日本は廃れていくっていう危機感さえ覚えたんです。それで、世界と戦える人にならないといけないなと思いました」。

それで、まずできることから始めた。それまで「言葉もできないし、あんまり興味もなかった」からと遠ざけていた旅行に積極的に行くことにした。大いなる志に対して、アクションとしては些細だけれど、これが須永さんの未来を大きく変えることになる。

「中国赴任中の2011年にエジプト旅行に行きました。そこでコシャリに出合うんです」。

会社を辞めることになるのは、その4年後。

須永 司さん●1983年生まれ。同志社大学卒業後、電子部品メーカーに勤務。2016年に「エジプトめし コシャリ屋さん」を開業。キッチンカー1台からコシャリの日本への定着を目論む。



稲田 平=撮影 武田篤典=取材・文

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