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できることなら、“すべて”を自分でやりたい

23歳の時、フランスに2週間旅行に行き、パン屋さん・お菓子屋さん・ビストロ・一つ星・二つ星・三つ星レストランを食べ歩き、次のステップを決めた。
「フランスでもパティスリーは日本と同じで、半加工品を使ってお菓子に仕立てる仕事だったんです。でも二つ星や三ツ星クラスに行くと、フレッシュな素材を加工することができて、それを使ってお菓子を作ることができた。その、加工技術から学びたいと思ったんです」。
国内で5つの店を渡り歩き、自らのビジョンに則って技術を身につけ、かつフランスで暮らせるだけのお金を貯めることができたのが27歳のとき。
「もう日本で勉強することはやりつくしたかなっていう状況でもあったので。星付きのレストランでのデセール(デザート)作りを学ぶことを目標にしていました。行く前には、当時の良いレストランの店名、シェフの名前、その店のスペシャリテ、特徴的なデセールを全部調べて頭に入れていました」。
西洋料理の世界で「フランスに修行に行く」というのは、ある種常套句だ。が、行くだけではどうにもならないと杉窪さんは言う。また、行ってきたところでそれが「箔」になるような時代でもないと。
「フランス帰りなんて珍しくもないですよ(笑)。そもそも僕はコンクールとかに出ないんです。初代チャンピオンだったらいいですけど、何回も何回もやって“15代チャンピオンです!”って言われてもね(笑)。だから、とにかく“身につける”ということを目的にしていきました」。
フランスでも日本と同じように、期限を切ってたくさんの店で修行しようとした。結局2年滞在したのだが、そのうち1年を同じ店で働いた。
「『ジャマン』というレストランです。そこでは僕が思っていたフレッシュな食材を加工して、お菓子にもパンにも料理にも使うということをしていたんです」。
料理もパンもお菓子もすべてあって、料理人がいて菓子職人がいて、パン職人がいる。理想的な業態。可能であればこんなお店を日本でやりたいと思った。でも日本の場合、すべての職人を取り揃えることは不可能……。
でも実は、20歳のころに抱いた未来像には「全部自分でやれるようになる!」というものがあった。
「料理もお菓子もパンも“素材で化学変化を起こす”という点においては同じなんです。きちんと味覚を鍛えていて化学変化のロジックを習得していれば、あとは細かい技術の応用なんですよ。言ってみれば、野球選手がクリケットをやるようなもの。プロとして通用する技術と経験があれば、応用はできます」。
2002年に帰国後、神戸のケーキ屋さんで働いた後、3軒のお店からオファーを受けた。選んだのは「一番条件の悪かった店」。かっこつけているわけではない。その店だけが、レストランに併設されたお菓子部門だったのだ。レストランがアプローチする素材の使い方に則ってスイーツを作る。そのメソッドを日本でももっと学んでみたいと思ったという。

「そのあと、東京の郊外でお菓子屋さんを立ち上げるところから任されて2年ほどやったあとに、あるパン屋さんに引き抜かれることになるんです」。
声をかけたのは東京の有名ブーランジュリー。この時、30半ばを過ぎていた。
帰国後に関わったお店は基本、シェフとしてだけでなく経営面でも手腕を振るった。なにしろ20歳から続けてきた食べ歩きでは「お菓子の味」だけでなく、「お菓子屋さんを経営していくこと」も視野に入れてすべてを学んできたのだから。
このとき、杉窪さんは初めて「パン屋さん」になるのである。しかも求められたのは「店の黒字化」。傍目には菓子職人としてキャリアを積んできた杉窪さんを、その店はパン職人として、経営者として引き抜いたのだ。
そしてこの店での経験が独立への最後の仕上げとなる。
 
【Profile】
杉窪章匡
1972年生まれ。石川県の輪島塗職人の家系に生まれ、毎食10品以上おかずを作る母の元で育つ。高校中退後、16歳で辻調理師専門学校に学び、パティシェとしてキャリアを積む。24歳でシェフとなり、27歳の時渡仏。2年間の修行を経て帰国後、パティスリーやげ人気ブーランジュのシェフを担当。40歳で独立し、株式会社ウルトラキッチンを興す。愛知、福岡、神奈川でパン屋をプロデュース後、2013年に直営店「365日」を開業。2016年にカフェ「15℃」をオープン。2018年には「ジュウニブンベーカリー」と「365日と日本橋」をオープン
稲田 平=撮影 武田篤典=取材・文


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