「天下人」秀吉、その「集大成にふさわしい接待」は、やはりこれでしょう。
【接待4】700本の桜を移植、「家中の子女」を花見でねぎらう ~醍醐の花見~慶長3(1598年)年3月15日、秀吉は醍醐寺三宝院(京都市伏見区)に正室をはじめ側室や前田利家の妻らを招き、自らの遊行も兼ねて大規模な桜の花見を行いました。
彼は花見の開催に先立ち、五重塔など山内の堂宇を修理するほか、畿内や吉野から新たに700本の桜を移植させました。開催直前まで雨続きの天候が続いていましたが、そんな秀吉に天も味方し、この日だけは奇跡的に晴れて風もなく、桜も満開を迎えました。
秀吉は、自らの妻妾や家臣の妻らとともに、醍醐の山々に設けた8つの御茶屋を巡って、終日花見に興じました。
また、彼は醍醐に向かう道中、家中に仕える女性数百人(3000人とも)にも仮装行列をさせますが、醍醐に到着すると、彼女らは花見はもちろん、各茶屋に併設された無数の露店で、扇や履物、アクセサリー、文具、雛張子(フィギュア人形)などの玩具から、焼餅や菓子といった軽食にいたるまで、各種ショッピングを満喫しました。
参加したすべての女性には、行列の衣装に加え、現地での着替え2回分を含む計3着の着物が、それぞれ新調されました。
秀吉の「人たらし」には理由がある
秀吉が花見を企画した背景には、苦戦が続く明国との戦いがありました。
九州・西日本をはじめ全国の諸大名への動員命令により、日本中の男たちが戦地へ向かい、残された妻や家族など多くの女性は、彼らの安否を気遣いながら日々不安な暮らしを続けていました。
そのため秀吉は、自らが企画した華やかで盛大な花見に彼女たちを招待することで、女性たちに明るさを取り戻してもらい、そのパワーで国内にはびこる重い空気を払拭しようという狙いもつけ加えたのでした。
しかし、これだけ趣向を凝らした一大イベントであったにもかかわらず、当日は厳戒な警備で招待者と関係者以外の立ち入りが一切許されなかったため、秀吉の願いもむなしく、この「接待」は、世間に影響を与えることはほとんどありませんでした。その5カ月後、「天下人」秀吉は病の悪化により死去、明国との戦いも中止が決定されます。
一般的に「人たらし」として知られる秀吉ですが、それには「理由」がありました。今回紹介した数々の「接待」や「接遇」をみれば、その「理由」は明らかです。彼は、可能なかぎり武力衝突を避けつつ、この「接待」「接遇」を通して「絶大な権威」を勝ち取り、相手を圧倒するという、周到な策略をめぐらせていたのです。
今回解説した「豊田秀吉の接待術」のように、日本史には「知って楽しい隠れたエピソード」から「現代でも参考になる人心掌握術」まで学べることはたくさんあります。ぜひ日本史を学ぶことで、「大人に必要な教養」と「現代でも応用できるスキル」の両方をいっきに身に付けてください。歴史は、そのための「格好の材料」になるはずです。
山岸 良二 : 歴史家・昭和女子大学講師・東邦大学付属東邦中高等学校非常勤講師
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