生き残るために必死で手探りしていた時期だが、意外にも生活は安定していたという。マエカワさんの判断で契約解除前からライブ収益を“バンド財布”にプールしており、そこからフリー後の給料が賄えたためだ。最初の給料は、デビュー直後の給料だった15万円×4。そのほか、作曲印税などの収入は4人で均等に分けているが、そちらは雀の涙だという。
「もともと4人ともあんまりおカネを使わないというか、メジャー時代も生活水準を上げることに興味がなかったんですよね。だから、これで普通にやってこれたし、皆何も言ってこなかったです。さすがに2年くらいしたら、鈴木に『もうちょっと上げてくれないか』と言われましたけど(笑)。僕はバンドとしておカネがなくなるのが怖いから、余剰金が出たらそっち(バンド財布)にため込んじゃうんです。いつ何があるかわからないし、われわれはほかに仕事もできないので、そういう危機感はずっとありますね」。
そうして4年が過ぎた2004年秋ごろ、ライブ会場限定シングル『深夜高速』がファンの間で話題となり、新しい展開を生む。販売枚数自体は「前が1500枚くらいだったのが3000枚になった程度」だったが、評判は有線放送やラジオ、テレビの電波に乗って、ファン以外の人たちにも広くバンドの現在地を知らしめるのに貢献した。
「1990年代は『フラカン(フラワーカンパニーズ)ってチャラいよね」と思っていた人たちの一部が、『あ、なんか変わったんだ』『今はこうなってるんだ』と思ってくれたみたいで、あれから野外フェスに呼ばれるようになりました。それで、ずっと手探りだった意識が『俺たちまだ行けるぞ』に変わった感覚がありました」。
その感触と同時に、所属レーベルとの歩調のズレが気になるようになっていった。レーベルは事業収益のほとんどをフラワーカンパニーズのコンテンツに頼る構造になっていたため、当然ながらリリース頻度を高めてほしいと思っている。しかし、バンド側はすでに持ち歌が多く、あまり頻繁に新譜を出してもライブに反映しづらい事情がある。加えて、レーベル側の情報拡散力に不満を持ってもいた。「このままでは共倒れになる」ということで、通算11枚目のフルアルバムをリリースした後に別々の道を歩むことにした。
売るためのアイデアが欲しかった
そうした経緯があり、新たなレーベルには、宣伝に関するアイデアを強く求めた。
「会社でもひとりのディレクターでもいいんですけど、売るためのアイデアが欲しかったんですよ。自分たちにはそれがないことはわかっていたから、『この人に任せたら面白いことになりそうだな』という人と出会いたくて、とにかくいろんな人と話をしました」。
そして2008年7月、古巣と同系列のメジャーレーベルに移籍することになる。過去に少しだけかかわった強烈なアイデアマンが本格的にチームに入ってくれるということが決定打だった。契約には法人が必要ということで、株式会社フラワーカンパニーズもこのときに設立している。
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