2018.06.06
LIFE STYLE

「丸山ゴンザレス」驚異の取材力を持つ40歳の豪放磊落なる生き方

当記事は、「東洋経済ONLINE」の提供記事です。元記事はこちらから。

フリーランスとして圧倒的な取材力を発揮する丸山ゴンザレスさん(筆者撮影)。

これまでにないジャンルに根を張って、長年自営で生活している人や組織を経営している人がいる。「会社員ではない」彼ら彼女らはどのように生計を立てているのか。自分で敷いたレールの上にあるマネタイズ方法が知りたい。

丸山ゴンザレスさん(40歳)は、TBSのテレビ番組『クレイジージャーニー』で、スラム街などの危険地帯にドンドン入って行ったり、地元の怪しげな料理をペロリと食べてしまったりする恐いもの知らずの姿が人気だ。

ただ、氏はテレビタレントではなく、編集者、ライターが生業だ。『旅の賢人たちがつくったアジア旅行最強ナビ』(辰巳出版)など海外旅行をテーマにした本や、『闇社会犯罪 日本人vs.外国人 ―悪い奴ほどグローバル』(さくら舎)など社会の裏側に光を当てた作品をたくさん出版されている。

また、最近では『鳥居准教授の空腹~世界のスラムにうまいものあり~』(幻冬舎コミックス/作画:渡辺大樹)という、世界を旅する考古学者を主人公にした漫画の原作を書いている。この本は、自らの食紀行の体験をベースに描かれている。

 

フリーランスとして圧倒的な取材力の強さを発揮する丸山ゴンザレスさん。彼が現在に至るまでの道のりを伺った。

生い立ちは

「生まれ育ちは仙台ですね。都市部の生まれですが、父親が山奥育ちでよくアウトドア、キャンプにつれて行かれました。湧き水を汲みに行ってコーヒー飲んだり、テントをはって一晩を明かしたり。タフさや技術は身に付きましたけど、逆にネイチャー旅行がちょっと苦手になってしまいました(笑)」。

父親は国鉄(途中からJR)の職員で、経済的には不自由のない家庭だった。

小学生時代は、映画『インディ・ジョーンズ シリーズ』(スティーブン・スピルバーグ)や漫画『マスターキートン』(小学館/浦沢直樹など)にハマり、将来は考古学者になりたいと思った。

「みんなインディ・ジョーンズを見て『考古学者になりたいな』くらいは思うけど本気でなりたいと考える人は少ないんですよね。俺は迷いなく『間違いなく考古学者になる!!』と思っていました」

それからは博物館や古本屋を回って考古学関連の本を買い漁ったり、夏休みに父親に仙台市や東北地方の古代遺跡に連れて行ってもらったりした。

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中学時代は、柔道部に入部し、成績は良く、仙台市内の大会で優勝した。また友達と楽しく過ごした。ただ中3で初めての挫折を経験する。

「第1志望の公立高校の入試に失敗しました。当然受かると思っていた高校だったので、かなりショックでした」。

スポーツが有名なマンモス私立高校に入学した。高校時代は、高校入試の失敗を受け入れられないまま過ごしていくことになる。柔道部のチームメイトなど友達はいたが、同級生とは疎遠になりがちだった。

そんな高校1年の春、はじめてのひとり旅に出た。青春18きっぷで国内を回った。

オレゴンにて(写真提供:丸山ゴンザレスさん)。

大阪、奈良、京都、滋賀、島根、鳥取……などを旅しましたね。切符だけ買って、カバンひとつで旅をするというやり方です。

駅舎とか、建築中の工事現場とかで野宿していました。それで、『どこに行っても大丈夫』という変な度胸がつきました」。

高校時代成績は悪くなかったのだが、学内の生活はあまり楽しく感じなかった。ただ学外の空手の道場に通い、そこで初めて大人の人たちと知り合った。

弁当屋と引っ越し屋でアルバイトして、そのおカネで本を買って読み漁った。特に官能小説を得意とするフランス書院の本がお気に入りだった。

日々の生活を送るうち、いつしか生活空間に窮屈さを感じ、仙台から離れたいと思った。

「今、思えば仙台ももっと広いと思うんですが、当時の自分にとってはすごい圧迫感がありました。活動範囲は限定されているし、人間関係も狭い。高校生活最後のほうは、そんな環境が気持ち悪くなってしまいました」。

大学は東京の國學院大學を選んだ

両親には地元の私立大学に進学するよう勧められたがあえて行かなかった。仙台で受験ができて、考古学の学部がある東京の國學院大學を選んだ。

「本当は旅しているときにとても風景が気に入った島根や鳥取などの国立大学に行こうかとも思ったんです。ただ母親が「そんなに遠い大学に行ってしまったら二度と帰ってこなくなるんじゃないか?」って心配しまして、折衷案で東京の大学に行くことになりました」。

大学には、神主、考古学者、国文学者など普段はなかなか出会えない毛色の変わった人たちがたくさんいて楽しかった。

高校時代に通っていた空手の道場は、大学入学後も通うことにした。早稲田大学にある学生支部に通うことになった。

「そこで早稲田大学の学生たちとつるむようになりました。いわゆる“頭の良い大学生の過ごし方”を目の当たりにしました」。

彼らは大学生でありながら出版社や映像関係の会社でアルバイトをしていた。それを見て「出版の仕事は手に届く場所にあるんだな」と知った。ただ考古学者になる夢はいまだに持っていたので、出版関係で働きたいとは思っていなかった。

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大学生の夏休みも旅に出た。やはり青春18きっぷを使って、東京から西日本、九州に向かって進んで行った。

「大阪のおばさんの家に泊まったり、サウナに泊まったり、野宿したりしながら1カ月くらいかけて旅しましたね。そして長崎の最西端に着いて『日本は狭いな~』と思いました。来年は海外に行こうと決めました」。

当時、若い人たちの中ではタイなどへバックパックひとつで旅をするのが流行っていた。丸山さんもはじめての海外旅行をすることを決めた。

「大学2年の夏休み、女の子にふられたのをきっかけに旅に出ました。最初の旅ではタイに2カ月行きました。1カ月10万円でやりくりする貧乏旅行です」。

初の海外旅行のキッカケは失恋

クレイジーな旅人の初の海外旅行のキッカケが失恋とは意外な感じもする。ただ、それからは休みのたびに、インドやカンボジアなどアジアを中心に旅をした。旅の期間が長すぎて授業が間に合わなくなってきたが、教授に「世界を回る旅をしていました」と素直に伝えると、単位をもらえることもあった

学内では資料館(現在は博物館になっている)の地下にある収蔵庫をたまり場にしていた。そこは遺物や土器などが置いてある、先生たちの作業場であり、そこに学生たちでたむろっていると先生から「発掘現場に行くか?」などと誘われたりした。

先生たちが資料を調査するときの荷物運びや、遺物修復の下作業などをして給料をもらった。それ以外にも斡旋センターなどで日雇いのアルバイトをしていたし、先生たちがご飯をおごってくれることも多かったので、金銭的にはあまり苦労しなかった。

バングラデシュにて(写真提供:丸山ゴンザレスさん)。

そのまま就職活動はせず、大学院試験を受けた。

「大学院試験は、英語、考古学、日本史の3つの科目があるのですが、英語は壊滅的にできず、考古学はヤマを外しました。ただ日本史は満点ちかい点数を取れて合格しました。石ノ森章太郎の『マンガ日本の歴史』全55巻を漫画喫茶で読破したのが成功の秘訣だと思います(笑)。日本の歴史を流れとしてとらえることができるので、オススメですね」。

めでたく大学院生になったが、ここからが上手く行かなかった。

大学の先輩に『建築会社の下請けの民間の発掘会社』で働くよう強制された。結果1年間まるまるそこで泊まり込みのアルバイトをした。

「先輩には『先生に言うなよ』って脅されて働いてました。授業には出れないし、家にも帰れないし、とにかく人間関係はめんどくさい。博士課程に行くのは諦め、大学院2年生で修士号をとってやめてしまいました。それがしくじりのはじまりでしたね。『私立文系考古学専攻修士号』とか就職ではまったく意味がないんですよ」。

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少しだけ就職活動をしたが手応えはなく、新卒の正社員として就職するのは諦めた。当時住んでいたアパートからすぐ近くにあった、雑居ビルに入っている出版&広告会社の面接を受けた。

就職先はブラック企業

「古美術の冊子を作っているらしかったので、自分でもできるかなと思ったんですが、この会社がひどいブラック企業でした」。

会社に入るといきなり顧客リストを渡されて飛び込みで広告掲載の営業を取ってくるよう言われた。右も左もわからないアルバイトの最初の仕事としては、かなり難しい仕事だ。

「それでも頑張って何とか何件か契約をとってきたんです。でもそれが逆に上司には気に食わなかったみたいでした。無理難題を与えて、失敗したところを潰して、精神的にマウンティングしようと思ってたみたいなんです。人間関係を良好にするには牛丼を1杯おごればいいと本気で思ってる浅はかな人でした」。

上司との仲はドンドン悪くなっていった。会社の経営状態もあまり良くなかった。

メキシコにて(写真提供:丸山ゴンザレスさん)。

営業の仕事で発生した経費は「今、おカネがないから」という理由で払われなかった。借金取りが会社に乗り込んできて「社長はいるか!!」と怒鳴りちらすこともあった。社長は、裏口からスタコラと逃げていった。

そんな経営状態だが、上司は会社からおカネをちょろまかしていたようだった。それに気がついたことを察知した上司から

「そろそろ裏の仕事をするか? 簡単に儲かるぞ?」
とふられたのだが、断った。

「上司になびかなかったのに腹が立ったのか、ミスを全部俺にかぶせてくるようになりました。最終的には『お前彼女いる? いるなら抱かせろよ』と本当に最悪のことを言ってきたので『次、何か言ったらぶん殴るぞ!!』と言って翌日辞表を出しました」。

後先考えず無職になってしまったので、仕方がなくアルバイトで生計を立てることになった。学生時代アルバイトしていた日雇いの会社に電話をして仕事を回してもらったが、それだけでは生活はできず、アンダーグラウンドなアルバイトにも手を出した。

「歌舞伎町に住んでいる、自称出版社の社長宅を掃除して話し相手になると1万円もらえる仕事、コインロッカーに入っている中に何が入っているかわからないアタッシェケースを大阪に運ぶ仕事、警察の知り合いから送られてきた警察限定グッズとか払い下げられた物品をヤフーオークションで売る仕事……などなど変なアルバイトをたくさんしましたね」。

考古学の知識を生かして、骨董品のレプリカを制作して販売もしたが、それほどおカネにはならなかった。

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あくせく稼いだおカネも、家賃を払ったらいくらも残らない。とにかくいつもお腹が減っていた。毎日テーブルに小銭並べて

「どうやって生きていこう?」

と思いながらチキンラーメンばかり食べていた。

「この頃が人生でいちばん底辺でしたね。辛かったです。周りにも似たような生活してる人たちがいたから劣等感はなかったけど金持ちを憎んでいました。これは今も思ってますけど(笑)」。

そんな状態の丸山さんを見かねた、大学の先生が声をかけてくれた。

「先生の同級生が測量会社を経営しているので、そこに就職しろと勧められました。素直に従って、はじめて正社員として入社しました」。

給料はあまり高くなかったが、それでもがんばって働こうと思った。そこで基本的な社会人としての素養を遅ればせながら身に付けていった。

毎朝、測量のための機材を自動車に積み込む。その日も作業をしていると、ふと知った顔を見かけた。大学時代の知り合いだった。彼は、丸山さんが勤める会社から斜め向かいに歩いて30秒くらいの場所にある出版社で働いていた。

“アジア旅行”の話題がずいぶんうけた

久しぶりの親交を温めていると、
「うちの編集長が話を聞きたがってるんだけど、会わない?」
と声をかけられた。編集長と話をすると学生の頃から頻繁に足を運んだ“アジア旅行”の話題がずいぶんうけた。

せっかくそんな面白いエピソードを持っているんだから、本にしないか? と勧められ、毎日思い出しながら書き始めた。

本を書いているさなか、勤めている会社の業績がみるみる悪化していくのがわかった。

仕事は滞るし、必要な事務用品は行き届かなくなる。そしてある日シャッターが閉められた。シャッターには弁護士の通知書が貼られていた。

会社が倒産するギリギリ手前で、単行本『アジア「罰当たり」旅行』(彩図社)を発売することができた。

「なんとか単行本を出版することができました。自分で1冊書いてみて痛感したのですが、自分で書くより人に書いてもらったほうが楽だなと思いましたね。それで編集者を目指すことにしました」。

改めて就職活動をして、ビジネス書を発行している出版社に入社することができた。

丸山さんは26歳で編集者になった。

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直属の上司が半年後に辞めることが決まっていたんです。半年間で一人前に仕事をやっていけるようにするため、ずいぶん鍛えられました」。

「夕方までに100本の企画を書いて!!」
「週明けまでに、単行本数冊ぶんの原稿を校正して!!」

などなど、とにかく大変な量の仕事を回された。ビジネススキル本、日本語関連の本を中心に、年間20~30冊編集した。寝ているヒマもなかった。

「きつかったですけど手取り足取り教えてくれたので、企画の立て方から入稿まで編集者としての基礎的な能力を最短期間で身に付けることができました。やはり膨大な仕事をこなしたのが大きかったですね。何年もかけて地道に経験積むより効率的に成長できたと思います。今、編集者づらをしていられるのは、その上司や会社のおかげですね」。

出版社で働き初めて生活が安定した。給料も良い会社で年々昇給していった。

「余裕が出来たので夜飲み歩くようになりました。飲み屋などでサブカル雑誌の編集者やライターと知り合いになりました」。

出版社で働く前の底辺時代、新宿でアンダーグラウンドな仕事をしていたため、裏社会の仕組みには精通していた。

知り合ったサブカル雑誌の編集に頼まれ、潜入取材や体験取材を手伝ったためますます詳しくなっていく。

裏社会をテーマにした単行本を出版

そしてフリーランスのライターとして、裏社会をテーマにした単行本を出版することになった。

『裏社会の歩き方』『図解裏社会のカラクリ』(どちらも 彩図社/丸山佑介名義)などはヒットして、まとまった臨時収入が入ってきた。

「30歳を過ぎた頃はかなり金銭的にはゆとりがありましたね。かなり派手に飲み歩いたし、移動はだいたいタクシーでした。そうやっておカネを使って飲み歩いたぶん、いろいろな面白い人たちと出会うことができました」。

仕事は上手く回っていたが、あいかわらず寝る時間はほとんどなかった。

「深夜まで仕事をして、朝まで仲間たちと飲み歩き、そのまま眠らずに会社に行ってました。睡眠は慢性的に不足していましたが、むしろ寝たら負けだと思ってました。どうしても眠気に耐えられないときは、会社の屋上に新聞紙を敷いてその上で仮眠をとって何とかしてました。いやあ、若かったんですね(笑)」。

そうやって裏の仕事をするうち、フリーランスの仕事が増えすぎてしまい、徐々に会社の仕事を圧迫していった。

「ある日、とある出版社から長期の海外取材の打診がありました。働いていた会社はとても良い会社だったのでしのびなかったのですが、辞表を出しました。その時が32~33歳で、それからはフリーランスとして活動してます」。

丸山さんのライターとしての活動方法は、みずから率先して海外に取材に行き、取材をして得たネタを個別で出版社に売りこむスタイルだ。タイ、カンボジア、マレーシア、ベトナムなど、アジアの国々を中心に回った。

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「旅行のたびに利益が出せたり、赤字になったりと安定はしていないですが、なんとかやっていけました。一度分厚い辞典の編集をすることになって、その本にかかずらううちに廃業寸前までおカネがなくなっちゃったことがありましたけど、それ以外はまずまず順調でしたね」。

フリーランスになってからは、編集者と作家、どちらもできるのが強い武器になった。特にフリーランスの編集者で、ビジネス書から国際関係、サブカルまでカバーして本を作れる人は少なかったので重宝がられた。

現在も編集者として本を作っている

忙しくなった現在でも、編集者として年間2~3冊の本を作っている。

「“便利屋”としては使い勝手が良かったと思います。たいていの仕事はこなすことができましたし。フリーランスになってからのほうが稼いでいるのですが、でもやっぱり安定感はないですね。ただあのまま出版社で働き続けたら、管理職に回されたはずです。そうしたら多分、面白くなくなって結局辞めてたんじゃないかな?と思います」。

会社で働いているときはメディアに顔を出すことは避けていたが、退社後は積極的に登場した。

Podcast Radioで『海外ブラックロード』という番組を旅行ジャーナリストの嵐よういちさんと初めた。人気番組になり現在も配信を続け今年で第500回を迎えた。

テレビ番組にも要請が来れば出演した。

「依頼がくるのは裏社会のネタを話す番組ばっかりで、海外取材のことは取り扱われることはありませんでしたね。スタッフの人に話しても『海外ネタはウケがよくない』って言われるだけでした」。

そんな中、TBSから連絡が来た。
「専門家が海外に行く番組を作りたいんですけど、協力してくれませんか?」
と言われた。

「処女作である『アジア「罰当たり」旅行』を読んでいてくれたり、『海外ブラックロード』を聞いていると言われて、それならば大丈夫かな? と協力することにしました。ただ、特に力を入れてたわけではなかったんです。普通の深夜番組に出演する気持ちでした」。

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そして2015年の正月、丸山さんが出演する「クレイジージャーニー」が放映された。

丸山さんは自宅で放送を見ていると、携帯電話がプルプルと鳴り出し、通知が止まらなくなった。見ると、ツイッターのフォロワーがドンドン増えていた。ついには1万人の新しいフォロワーがついた。

「これは今まで出ていた深夜番組とは違うな? と思いました。番組登場後には、雑誌での連載が3本も増えましたし、出演するトークライブにもたくさんのお客さんに足を運んでもらえるようになりました」。

戸惑う出来事もあった

顔が売れることによって良いことはたくさんあったが、そのぶん戸惑う出来事もあった。

「昔から支援してくれてきた人たちとも大半は良好な関係のままだったんですが、知り合いから『テレビが始まって変わりましたね』みたいなことを言われることもありました。自分では特に変わっていないと思うんですけどね。そうして何人かの人たちが離れていきました。もちろん、新しい出会いはたくさんあって、新しい仲間もたくさんできて、結果的には良かったと思います」。

現在は仕事をするうえでなるべくストレスを減らすよう努力しているという。それはキツイ仕事を減らすのではなく、嫌な仕事を減らす作業だ。

「大変な仕事でもやりたい仕事ならいいんです。“海外のスラム街の取材”とかは難易度が高いけど、やりたいからストレスにはならないんです。逆に難易度は低くてもイライラする仕事はダメなんです。話の合わない編集者とか、勢いだけだったり、コントロールしたがったりする編集者と記事を作る仕事は正直もうしたくないですね。一緒に作っていくって感覚を共有できる人がいいです」。

テレビ番組に出演すると強制的に日程を押さえられる。ただそれでもテレビ番組だけの生活にはならないよう、フリーで取材旅行に出かけつねに新鮮なネタを手に入れるよう心がけている。

そのネタを雑誌連載、単行本などでアウトプットする作業は楽しいし、これからも続けていきたいと思う。

「仕事を続けるうえでつねに、不祥事だけは起こさないように気をつけています。自分が辛いだけではなくて、親しい人たちも悲しませてしまうので。これからも心身ともに元気に取材を続けていきたいと思います」。

話を聞いて、丸山さんはつくづくタフな人間だなと思った。さまざまな経験に裏打ちされた強さなのでめったなことではめげない。

これからも僕らでは到底足を運べない秘境へ行って、目の覚めるようなネタを持ち帰ってきてくれるのを期待したい。

村田 らむ : ライター、漫画家、カメラマン、イラストレーター
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記事提供:東洋経済ONLINE

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