OCEANS’ PEOPLE ―第二の人生を歩む男たち― Vol.24
2019.03.02
LIFE STYLE

愛される才能とは何か。ROCKな書家が墨筆士になる物語

OCEANS’s PEOPLE ―第二の人生を歩む男たち―
人生の道筋は1本ではない。志半ばで挫折したり、やりたいことを見つけたり。これまで歩んできた仕事を捨て、新たな活路を見いだした男たちの、志と背景、努力と苦悩の物語に耳を傾けよう。

小林龍人のインタビューを最初から読む

小林龍人は墨筆士である。書を生業としている。ヨーロッパや中東、アジアの国々でパフォーマンスを行い、企業や店舗のロゴを筆で書く。現在42歳、書の世界に足を踏み入れたのは30歳のときだというから驚きだ。それまでは渋谷のリサーチ会社でマーケティングの仕事をしていた。

誰かを勇気付けられるような人間になりたいと、原宿・明治神宮の橋の上にレジャーシートを敷き若者からの悩みを聞く、ということを始めた。彼には何の実績もなかった。

そんな彼がたったひとつの武器に選んだのが、書だった。

 

自分ならどう書くだろう?という疑問が未来を切り開いた

味のあるような文字で、良さげな言葉を書いておいておけば若者たちも足を止めてくれるだろう。最初はそんな邪な気持ちからのスタートだった。

30歳で、6年勤めた会社を辞め、小林龍人は「強い男」への一歩を踏み出した。最初に挑戦したのが、路上でのカウンセリング。道端に敷いたレジャーシートの上に、自らしたためた書を並べた。

そのときの小林にとって、書は単なるツールでありデコレーションだった。道行く若者の目を引くものなら、似顔絵でもミサンガでもよかったのだ。たまたま小学生時代に書道の経験があったから。

「それで、カウンセリングというよりは“今の私を見て何か書いて”って言われるようになってきたんです。そういう路上の書家みたいな人いっぱいいましたからね。でもオレそういうんじゃないんだけどなーって思いながらも(笑)、がんばって書いて。1枚1000円とかもらうようになって。そういうつもりじゃないんだけどなーって思いがどんどん強くなって……」。

だが、独立して3年経っても目立った結果は出せずにいた。路上カウンセリングだけでなく、経営者向けのパーソナルスタイリングなど色々なビジネスに挑戦しながらも生活費はバイト頼み。周囲からは“もういいんじゃねえか?”という声がかかり始め、自分でもそろそろ潮時かなと思っていた。ただ、書だけは続けていたのだ。とくにそれで身を立てようと思っていたわけではない。ただ、何となく。

「きっと僕に書をやめさせないように、何かの力が働いたんじゃないかと。今ではそう思っています」。

2010年のNHK大河ドラマ『龍馬伝』。気鋭の女性書家・紫舟の筆による題字は、シャープで繊細な中に力強さが溢れるものだった。それを見た小林は、ふと「自分ならどんなふうに書くだろう」と思った。

書いた。

「最後のハネの部分、ゲームの『ストリートファイターⅡ』の昇竜拳みたいに筆を両手で持って回しながら書いたら、そこに龍が姿を現したんです」。

のちに小林龍人のトレードマークとなる書法がこのときに生まれたのである。翌年、この書は全国展開するスーパーで干支の置物とともに販売されることになった。

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「このときに、書で生きていく覚悟ができたんだと思います」。

同時に小林自身の名も売れ始めた。

「それで、同じ書をやるにしても何かしら注目される要素があったほうがいいということで、“ROCKな書家”として活動するようになったんです。サーフィンとかスノーボードが大好きで、Hi-STANDARDとかロックにもハマっていて、ヒステリックグラマーのダメージジーンズを履いて筆を振るう、みたいな」。

 

人との出会いが追い風になった

だが、本格的に変化を遂げるのはこの後。人生の師と呼ぶべき人物に次々と出会い、彼の書は劇的に変わることになるのである。

最初は石坂まさを。宇多田ヒカルの母・藤 圭子を世に出した作詞家である。小林によると「ある方に紹介していただいた」らしいが、何でしょうね、この人の謎の人脈。

「書家として紹介していただいて、石坂先生のご自宅にお邪魔するようになるんです。僕がお会いしたとき、先生は、糖尿病と脳梗塞でほぼ視力を失われていて寝たきりの状態だったんですが、お渡しした僕の書に感じるところがあるっておっしゃって。僕に“何か面白い話をしてください”って言われたんですね。それで路上カウンセリングの話とか、2008年に北海道で農業プログラムに参加して、ママチャリで東京まで帰ってきたエピソードをお話しして、随分気に入っていただいたんです」。

……ちょっと待て。「北海道の農業プログラム」? 「ママチャリで帰京」? その話はここで初めて出てきた。全然聞いていないのである。そんなドラマチックな経験を、ついでのように語る。今回ひとまず、それはさておく。

「それで毎週お宅にお邪魔してお話ししているあいだに、“キミは龍人にしたらいいよ”って。いまの名前をいただいたんです。先生のご本名が澤ノ井 龍二。僕が辰年生まれ。そして世に出たのも龍の書がきっかけ。初めてお会いしたのが2012年辰年、ということでご縁を感じていただいて、今のこの名前を授かったんです」。

そしてもうひとり。

白石念舟との出会いもあった。これもまた「小林さんにぜひ紹介したい人がいる」という知人からのお誘い。「強い男になる」活動の一環として、日本文化にまつわる会合やセミナー、勉強会などに出入りしていた関係で声がかかったという。茶道コンサルタントにして、国宝監査官・文化財調査官書跡主査の田山方南に師事し、掛け軸や茶器の目利き学んで書を研究した人物だ。

「白石先生がいないと僕の今の人生は成り立っていません。先生は田山先生から“日本文化を学ぶならば一次資料に触れなさい”と教わったそうです。すべて本物を触れねばならないと、歴史上人物の書を二百幅以上収集された方なんです。坂本龍馬だったり、高杉晋作だったり、中岡慎太郎だったり、さまざまな人々がその書をしたためたときの話を、まるでご自身がその場に立ち会ったかのようにフレッシュにリアルに語ってくれて。完全にやられました。『うわー、この人すげえ!』って」。

白石念舟と小林龍人。ふたりの背後、左側の書は坂本龍馬のものだ。

当時、白石は毎週のように若者を集めて勉強会を開いていたという。参加していた多くの若者が受け身だったのに対し、小林はガツガツと前のめりに話を聞き、勉強会ではないタイミングでも積極的に白石に食いついていったという。ちなみに、一番「ROCKを感じた」のは高杉晋作の書。

今の日本を作り出してきた男たちの、墨が飛び散り筆跡も生々しい書を目の当たりにし、ライブ感たっぷりに当時のエピソードを聞かされた。漢字を、甲骨文・金文・篆文から書き起こして、ルーツからの流れを学ぶ「白川文字学」を学ぶべしという指導を受けた。

ほぼ1年間毎週のように会い、白石から振られた話題に関してはヴィヴィッドにリアクションした。書道の指導を仰いだわけではなかったけれど、白石と触れ合った時間は小林の書に大きな影響を及ぼした。2015年11月10日、白石念舟は73歳で旅立った。そのまさに2日前に白石の元に赴き、いつものように話をしていたという。

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白石との出会いは小林の書への姿勢を完全に変えた。ROCK好きのおしゃれな兄ちゃんが書をやるから面白いのではないのだ。ROCK好きのおしゃれな兄ちゃんかどうかは関係ない。彼がやる書が本当に面白いかどうか。書を通じてどんなものを見せることができるのか。

 

チャンスをものにし、実績を積み、現在

「僕の書がどんなものであるか、という点には誰も注目していなかったんです。白石先生は学校では学ぶことができなかった、生きた歴史を教えてくれました。日本の歴史を作ってきた多くの先人の書を僕に見せてくれて、彼らの想いを感じることができたんです。白川文字学を学び、漢字の意味と成り立ちを知るきっかけも与えてくれました。それは完全に今、僕自身が文字を書く源になっています。

自分の書に需要があることがわかって以降も、僕は僕の書のあり方にまったく満足していなかったんです。モチベーションとしてはすごくシンプルで、“自分はこんなんじゃねえ”っていうだけ(笑)。なりたい自分と今の自分のあいだに大きな差があることはわかっていたんですけど、それを埋めるためにどうすればいいのかがわかっていなかった。そのぼんやりとした不安を先生との出会いが解消してくれました。そのとき、一気にビジョンと、どうするべきかという道筋を得ることができたんです」。

小林は少しずつ実績を積んでいた。「龍」の書を販売した翌年には「巳」の書を手掛け、特に発表の場がない時期にもSNSを通じての作品の発信は欠かさなかった。そんななか、Facebookである人物が小林の作品をシェアし続けているのに気づく。連絡を取ってみると、ドバイのテレビ局のディレクターだったという。

「“君は世界的アーティストになるだろう”って言ってくれたんです。彼は、ニール・ドナルド・ウォルシュの『神との対話』をバイブルにしている、非常にスピリチュアル志向の強い人物で、やりとりするうち僕のなかでに、ドバイにアンテナが立ったんです。ちょうどそのタイミングで、ミラノ万博でのパフォーマンスのお話をいただいて。航空券を取ったらそれがなぜかアブダビでトランジットだったんですね。それで、身の回りの人々に“無償で結構ですので、何かドバイにご縁ないでしょうか?”ってお声がけしたら、ドバイ総領事館をご紹介いただき、『セブンイレブン』が出店する際の式典でのパフォーマンスが決まりました」。

小林は、結局イタリア各地で1カ月、ドバイに3週間滞在し、さまざまなパフォーマンスを行った。特にドバイとは繋がりが深まり、パフォーマンスを通じて知己を得たJICE(日本国際協力センター)という財団法人からのオファーで、翌年、アブダビでのパフォーマンスも果たす。漆黒の羽織袴で筆を振るうその姿は“実写版バガボンド”とも呼ばれたという。

この最初の海外でのパフォーマンスの裏には、周囲の応援があった。これまでの活動を見守ってきてくれた人々から出資を募り、小林は200万円の調達に成功するのだ。

その後も小林龍人は地道に活動を続けている。ある有名ホテルのレストランの題字を手掛けたり、さまざまな場所でパフォーマンスを展開したり、とにもかくにも今は書で身を立てている。サーフィンやスノーボードに行ったり、限定販売のレアなファッションアイテムを手に入れたりと、彼自身の本質を損なわないまま。それも含めて、生活のすべてを書で表現していく。

しかし、なんという男だろう。なぜ彼を周囲は放っておかないのだろう。もしかしたら彼の持つ最大の才能は、みんなに愛されることなのかもしれない。「強い男になりたい」なんて漠然とした夢を、最終的に「書」というつかみどころのない世界で叶えようとしている。そしてことごとくその過程で、彼は誰かの力を借りているのだから。

「僕はやはり今も、みんなに勇気を与えられる存在になりたいと思っています。名を知られるのはもちろんですし、僕の書を見て何かを感じてもらえるのは非常にうれしいと思っています。でももうひとつ、30歳を過ぎてからそれまでの生活のすべてを捨て、多くのことがうまくいかなかったけれど新しいことに挑戦し、自分のやりたいことで身を立てていく……っていう、僕みたいなヤツのことを知ってもらうことができれば、もしかしたらそれで多くの人が何かの挑戦をしようと考えるかもしれない。そんな存在になっていけるよう、今は毎日頑張っています」。

【Profile】
小林龍人
1976年、埼玉県狭山市生まれ。大学卒業後、外資系マーケティングリサーチ会社に就職。30歳で退職し、ひょんなことから20年ぶりに筆を持ち、書の道に入る。独自の手法で、人々に勇気と元気を与える書を生み出す墨筆士。国内外で数多くのライブパフォーマンスを行い、店舗や企業イベントなどの題字も認める。
オフィシャルウェブサイトはwww.ryu-jin.tokyo

稲田 平=撮影 武田篤典=取材・文

# OCEANS’s PEOPLE# 小林龍人# 書道
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