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日本デニムを支える先人たちの膨大なデータと経験

「今や日本のファクトリーは、オリジンを忠実に再現できるほどのデニムを作ることができます」。

小林さんは、そう太鼓判を押す。

その日本デニムの聖地こそ、備中・備後(岡山、広島)を中心としたエリアである。ただ、そこには地場として根付くための確かな素地もあったのだとか。



「四国のお遍路さんが履く地下足袋を作っていたのがあのエリアなんですよ。お遍路さんですから、当然地厚なものが必要ですよね。デニムも一緒で、デニムを縫うならまずは厚いものを縫う設備があるかどうかが重要なんです。

そして、その歴史はワークウエア縫製の代表的な産地という称号へとつながった。シルクに長けたエリアでデニムは縫えません」。

やがて、日本にもアメリカからデニムが上陸。当然、日本人はすぐさま反応を示す。

「何やらすごい青ズボンが来たぞ。これを日本でも作れないか、とみんなが考え始めました。じゃあ、どこなら作れるんだとなったときに、『岡山県の児島エリアに厚物縫いのワークウェア工場があるから試してみよう』となったわけです。

そして、いざ試してみたら、彼らはいとも簡単に縫えた。なにせ、軍服も学生服も作っていましたからね。その後、国内ではデニムが憧れの対象となりましたし、認知も広まりました。『これは儲かるかもしれない』となれば、やはり飛びつきますよね。その情熱がみなさん、本当に凄かったんです(笑)」。



日本デニムの発展は、先達たちの情熱やガッツによるところも大きいと小林さんは見る。

「とにかくみんな、リーバイス研究がすごかったですよね。安さこそ正義だったアメリカのデニムを日本で科学的に研究し、そこから数多のバリエーションが生まれました。おそらく、’90年代以前のアメリカでは、手間のかかる高価なヴィンテージ感覚のデニムが許される土壌、マーケットはなかった気がします。

過去の歴史を捨ててでも効率化を選んできたのが、いわばアメリカ流の進化なんです。日本は逆に遡っていきましたよね。『もっと昔はこうだったんだ』っていう研究をした。だから、ジャパンメイドのデニムを作るとなったときに職人たちが頑張ったのは、主にヴィンテージ方面。

逆説的ですが、ヴィンテージ市場の充実がデニムの進化を促したとも言えますね」。

先達たちは、アメリカンデニムの研究のなか様々なトライ&エラーを繰り返し今に至る。その歴史があるからこそ、今の作り手は、大幅に手間を省いてアイテムを作れていると小林さんは言う。

「過去、デニム作りに関与している方々は、そりゃもう膨大な失敗を繰り返しては改善し、検証しては再考しての繰り返しでした。色落ちのしない5000メーターのデニム生地が出来上がってしまった、なんてことも聞きますから。それが耳付きの生地幅デニムなら2000本分ですよ(笑)。

どうなるか分からないけれど、とりあえずやる。当時は、みんなやってみなければ分からないと言っていましたし、デニムビジネスは一度当たれば数億円の世界でしたからね。それはみんな血眼になりますよ。もうリアルゴールドラッシュです(笑)」。



小林さんは、日本デニムが世界一と呼ばれることの本質はここにあると見る。

「ジャパンデニムの何がすごいか。確かに、気質的に手を抜かず丁寧に仕上げるところも賞賛されるべきでしょう。でも、それも研究に研究を重ね、トライ&エラーを繰り返して得た、膨大なデータと経験の賜物ですよね。

昨今、日本のデニム産地では、どんな要望にも瞬時に応えられます。“何年代のあのアメリカのジーンズ”とか“何回はいて洗ったぐらいのジーンズ”とかね。要するにその上積みで、今の世代の人たちはいとも簡単にあらゆるデニム生地が作れているんです」。

次回は、小林さんが思う“最高のデニム”と、自らが手掛けるオーベルジュの新作デニムについてお話をうかがう。

伊藤恵一=写真 菊地 亮=取材・文

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